【南投信義】丹大林道與消失的省道台16線|可徒步深入中央山脈的經典長程林道

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布農族人有這麼一句話:「濁水溪的上游,不是終點,是我們布農文化的起源」,這句話揭開 丹大林道 的旅行序幕。下面是幾年前,丹大林道還沒被媒體大肆報導前,我曾在某個冬季前往安靜的丹大林道徒步健行和野營,以及在工寮過夜的三天兩夜重裝健行紀錄。 2024.01.31更新:合流坪的鋼便橋已於今日被台電撤除了 連結: 台電施工後丹大林道「恢復」通行! 拆橋挖巨溝「車輛恐無法通過」 丹大地區 位於臺灣本島中部之濁水溪上游,行政區隸屬於南投縣信義鄉,為全國面積第二大的鄉鎮。丹大地區也是濁水溪的發源處。東側翻過中央山脈可達花蓮,南鄰玉山國家公園,西接日月潭國家風景區,北側則與仁愛鄉相接。 潭南、雙龍、地利及人和四村等區域皆位於信義鄉,著名的 丹大(孫海)林道 便位於地利村中,沿著步道往東至花蓮邊界處可與七彩湖相接。其中地利村及雙龍村面積最大,合佔本區約七成面積,人和村次之,面積最小者為潭南村 。 丹大林道周邊地圖 丹大林道路徑示意圖 日治時期西元1943年,原本預計將東部花蓮木瓜溪流域附近的水力發電廠所生產的剩餘電力運輸到西部,但因為日本在1945年戰敗後,計畫就宣告中止,1948年台灣工業急速發展,用電量大增,直到1950年獲得美國援助執行了能高路線全長45公里的69kV東西向輸電計畫。 之後為了解決花東地區電力供應問題,台電於1985年開始研究新東西輸電之路線,最後決定自南投明潭發電廠與大觀第二發電廠輸送電力至花蓮鳳林超高壓變電所,此新東西輸電線於1990年開始辦理路線中心測量,1998年完工,全長72.4公里。 沿線共有196座電塔,線路橫跨中央山脈海拔2925公尺的崇山峻嶺,並在「 七彩湖 」附近的越嶺處設有「 光華復旦 」紀念碑,西以 丹大林道 、東以 萬榮林道 為維修保線道路。 丹大林道是深入丹大地區的重要通道,1958年(民國47年),出生於現今雲林縣口湖鄉的孫海,標得林務局巒丹大事業區第八林班地檜木原始林採伐權及伐木後的重新造林權,為了進入深林,孫海沿著原本的山徑開闢出可以卡車通行的丹大林道,因此丹大林道也被稱為「 孫海林道 」。 當年為了闢築林道與運輸需要,孫海建造了一座木橋於合流坪橫跨濁水溪,之後改為水泥橋,這座橋就是著名的「 孫海橋 」。 為了伐木業而開闢的丹大林道,其終點一開始並不是在七彩湖,後半段到光華復旦碑約12公里路段,是台電為了興建東西線輸電工程,才於

日本の登山の歷史

「人は何故に山に登ってきたか、その発展の歴史」

1、 生活の為の登山―古代
    (食料採取として、獣、木の実,山菜、石器の石採取、山への感謝=山は神)
 
2、 宗教的目的の登山―奈良時代―平安時代以降
    (古代は山を神と崇めたが、奈良、平安時代仏教が入り山は修行の場となった)

3、 戦略的、政治的支配の為の登山―戦国時代
    (戦いの場として、土地の支配、森林管理として)

4、 薬草採取の為の登山―江戸時代
    (医者、学者が高山植物を薬草とし採取、医療、研究)

5、  旅の中の遊びとしての登山―江戸時代~明治時代
    (文人墨客、画家、武士、医師、町人等、多くの人々が山を文化として育てた)

6、 科学的調査の為の登山―明治時代
     (土地測量、地質、鉱石、動植物、気候等の調査研究)

7、探検、スポーツとしての登山―明治時代~昭和
   (未知な山岳を明らかに、教育的スポーツ、人間の限界へのチャレンジ登山家)

8、趣味、自己表現、観光としての登山―現代
   (戦後のサラリーマン登山、プロの登山家、中高年登山、あらゆる層が商業化)


西暦 和暦 事  項
652 白雉3年 ・飯豊山:役の小角と唐僧知道和尚により開山と伝えられる。
701 天宝1年 ・佐伯有頼(ありより:越中守佐伯の嫡子)が逃げた父の鷹を追いかけて深山に入っていくと、熊に出会い弓を射る。矢を受けた熊は血を流しながら洞窟に入り、有頼もその後を追うと、そこには胸に矢の刺さった阿弥陀如来が顕れ、有頼に対し立山を開くようにと告げたという。その洞窟が立山室堂の「玉殿岩屋」。これが立山の開山と伝えられる。出家し名を慈興に改め、立山開山の為に尽力。
717 養老元年 ・泰澄上人(越前国麻生津:福井市南部の出身):白山を開山
782 天応2年 ・勝道上人(下野国:栃木県の南高岡:現真岡市出身):男体山を開山
784 延暦3年 ・勝道上人:庚申山に登頂し登路を開く。
837 承和4年 ・「霧島」が837年(承和4年)8月の続日本紀に初めて登場する。
848 喜祥元年 ・学問行者:戸隠山を開山。
888 仁和4年 ・北八ヶ岳の天狗岳が大崩壊を起こし、その結果、松原湖などの湖が誕生。
1518 永正5年 ・富士山で登山中の道者が嵐にあって13人死亡(我国最古の山岳遭難記録)
1559 永禄2年 ・武田信玄の配下の武将山県昌景が、飛騨を攻めるのに上高地から安房峠(古安房峠)を越えて入る。
1584 天正12年 ・佐々成正:家康に応援をたのもうと11月末、ひそかに富山を出発し、弥陀ヶ原・ザラ峠をへて黒部川をわたり、針ノ木峠もしくは鳩ヶ峰越えて大町に下ったっ伝えられる。(この後黒百合伝説に繋がる)
1590 天正18年 ・飯豊山:蒲生氏郷により5年の歳月をかけて登拝路が開かれる。
1609 慶長14年 ・徳川家康公が富士山頂上の富士山本宮大社支配を安堵
1617 元和3年 ・室堂小屋(最古の山小屋)を加賀藩・前藩主前田利長夫人玉泉院が再興⇒宝暦2(1752)年加賀藩第7代主前田重煕(しげひろ)が再建
1640 寛永17年 ・加賀藩黒部奥山廻役を設置:藩林保護のための検分登山を行い1870年(明治3年)まで、北アルプスの主峰のほとんどを登って回った。
1683 天和3年 ・円空:笠ヶ岳開山
1707 宝永4年 ・富士山大噴火宝永山出現。噴火により登山道がふさがれ登山が衰退する。
1727 享保12年 ・福田某による富士山の標高の測定。標高3386m。(富士山の高さを最初に測定したと言われている。)
1733 享保18年 食行「身禄」が北口7合目の烏帽子岩で断食入定して即身仏になる。富士講の拡大。(新田次郎「富士に死す」のモデル)
1786 天明6年 ・モンブランにミッシェル・パカール(M.Paccard 医師)とジャック・バルマ((J.Balmat水晶採り)が初登頂:しかしパカール初登頂の事実はテオルド・ブーリー(画家・登山家)の策謀により葬られたが、1986年に200年ぶりに復活する。それは、モンブラン初登頂を狙っていたブーリーはパカールと何度かモンブランにチャレンジしたが、彼の体力の無さから登頂できなかった。パカールの登頂に陰湿な嫉妬を抱いたブーリーはパカールが登頂記を出版する前に「登頂ルートはバルマが事前に発見したもので、パカールは人事不詳に陥りながら雪に倒れこみ、バルマが山頂に達したのち、バルマの助けを借りて山頂に引きずりあげられた。・初登頂の主導者はパカールではなく実は雇われていたパルマである・・にもかかわらずパカールはバルマの功績を横取りして自分がモンブランの征服者であるかのような著書を出そうとしている」等と義憤による告白であるかのような冊子を出版し、パカールの栄光を貶めた。さらにモンブラン初登頂にはジュネーブに住むオラス・ベネディクト・ソシュール(Horace-Bénédict de Saussure 登山家・科学者)からの賞金も掛かっていたが、パカールの功績と名声は完全に否定され懸賞も受け取らなかった。さらに登頂後47年後(パカールは死んでいた)、名声欲の強いバルマの尾ひれはひれが付いたホラ話は「三銃士」や「モンテ・クリスト伯」の著者として知られる文豪アレキサンドルデュマの筆によりノンフュクション冒険譚として広まりヨーロッパの人の記憶と登山史から完全に消し去れられた。初登頂の1年後に、初登頂を記念して、シャモニーの中央広場にパカールの入っていないバルマーとソシュールの二人の銅像ができた。しかし200年経ってソシュールの子孫のフェルディナン・ド・ソシュール(言語学者・記号論)により彼に日記と偶然にも彼らの登頂を麓から望遠鏡で一部始終見ていたドイツの著名な学者らが記録によりパカールの登頂の事実が証明され名誉が復権する。そして登頂200年祭の1986年にバルマーとソシュールの銅像の少し後にパカールの銅像が建てられたという。
1803 享和3年 ・伊能忠敬が富士山の標高を測量:3928mとする。かなり正確ですね。!
1812 文化9年 ・谷文晁(たにぶんちょう):日本名山図会⇒江戸時代後期の著名な画家谷文晁が画いた日本の名山90の眺望図。蝦夷地の内浦岳、臼山、恵山、玳瑁渉(樽前)、志利辺津山(羊蹄)の五山は、文晁の弟元旦による。
1818 文政元年 ・明覚法師と永昌行者:乗鞍岳を開山
1821 文政4年 ・伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』完成。忠敬は3年前(1818年4月13日に死去。喪を隠して作業を進め3ヶ月後喪を公表。(1800年に一次測量を開始し、1816年10次測量まで続く)
1824 文政7年 ・播隆:笠ヶ岳を再興
1828 11 ・播隆:槍ヶ岳を開:山倉村(上高地の入口)の案内人中田又重郎と共に初登頂 
1831-33 13年から天保2 ・葛飾北斎:富岳三十六景
1832 天保3年 高山たつ:富士山に女性で初登頂。⇒たつは、男女平等を説く富士講の小谷三志の弟子の娘(尾張徳川家江戸屋敷の奥女中)で、髷を結い三志らとともに登り、9月の25日(現在の10月20日)雪の降った山頂にこごえながらもたどり着いたとされている(三志の日記に書かれているという)。
1855 安政元年 アンギュラック(ajungilak)がノールウエイで創業。保温第一の極寒地での性能に定評。(*私のシュラフは山と渓谷のモニターとして1998年に頂き使っていました。)
1857 安政3年 ・英国:The Alpine club(アルパインクラブ)創立・世界初のアルパインクラブ。⇒1860年に始まったゴルフの全英オープンがThe Open Championshipと英国という国名が入らないように、このクラブも他の国のアルパインクラブのように国名が入らない。そういえば、英国は万国郵便連合(UPU)加盟国であるに係わらず切手に国名が入っていませんね。1840年に切手を使った近代的郵便制度発祥の国のプライドでしょうか。
・松浦武四郎:羊蹄山登頂⇒幕末から明治時代にかけて活動した日本の探検家。雅号は「北海道人(ほっかい・どうじん)」。蝦夷地を探査し、「北海道という名前を考案した。(伊勢参りを終えて松坂市を伊吹山に向かっているときに国道23号線の出雲川の手前にに松浦武四郎記念館の看板を見かけました。)
1860 万延元年(庚申) ・富士山にイギリス公使ラザフォード・オールコックが外国人で初めて登頂。このとき標高4322mと観測する。
庚申御縁年で五合目まで女人登山許可。
1862 文久2年 ・アーネスト・サトウ初来日。一週間後に生麦事件が起こる。
・マムート(MAMMUT)がスイス、レンツブルクに近いディンティコンでKaspar Tannerがロープメーカーとして創業。クライミングロープノリーデングカンパニー。2001年にノールウエイの寝袋メーカーajungilakを買収、そののちジャケット、ボディーウオーマー市場に参入していく。(1984年からマンモスのように強いロープという意味を込めマンモスのマークを使用)
・オーストリア山岳会(OAV)創立。
1863 文久3年 ・スイス山岳会(SAC)及びイタリア山岳会(CAI)創立
1865 元治2年 マッターホルン初登頂:エドワード・ウィンパー、チャールズ・ハドソン、フランシス・ダグラス卿、ダグラス・ハドウのイギリス人パーティはミシェル・クロッツとタウクヴァルター父子をガイドにしてマッターホルン登頂成功。しかし下山途中でハドウの滑落にクロッツとハドソン、ダグラスが巻き込まれ、これによりザイルが切断され、4人は1400m下に落下して死亡。(アルプス登攀記:ウィンパー)
エベレスト(Everest:英語名)と命名される。⇒イギリス統治下の当時のインド測量局はそれまでP15という仮名をつけて測量していた山が世界最高峰と判明した際に、前任の測量局長官George Everestの功績として敬意を表し「エベレスト」と名付けた。現在ではチベット語で「大地の母」を意味する「チョモランマ」(ChomoLangma)、ネパール語で「世界の頂上」を意味する「サガルマータ」(Sagarmatha)も使われる。
1866 慶応2年 ・坂本竜馬と妻のおりょうが新婚旅行途中、霧島高千穂の峰に登る(霧島神宮の記録)。
1867 慶応3年 イギリス公使パークス夫人が外国人女性で初めて富士山に登頂する。
1868 慶応4年
(明治元年)
・木曾の御岳:女人堂山小屋として営業開始。
・1868年1月25日が明治元年1月1日
1869 明治2年 ・ドイツ山岳会(DAV)創立
1871 明治4年 ・芦安村の行者、名取直江:広河原から白根お池経由で北岳登頂(主要山岳としては最後の開山)
・測量事業開始:兵部省陸軍部参謀局に間諜隊諜報掛を設置して地理偵察、軍用地図編集を開始
1872 明治5年 ・太政官通達により神社仏閣地女人禁制が廃止。
・5月、明治政府が、山伏・修験道禁止令を発布。
・白山に女性が初めて登る(鳥取県の女性としかわからず)
1873 明治6年 明治6年(1873)に、江戸時代から引き続き使用していた太陰太陽暦(いわゆる旧暦)を太陽暦(グレゴリオ暦)に切り替える。旧暦の明治5年12月3日を新暦(現行暦)の明治6年(1873)1月1日となる。
1874 明治7年 ・ウィリアム・ゴーランド(ガウランドとも)、アトキンソン、アーネスト・サトウとの外国人3人のパーティで、ピッケルとナーゲルを用いたいわゆる近代登山を日本で初めて神戸の六甲山で行う。
1875 明治8年 ・前年の廃仏毀釈をうけて富士山山頂の仏教的地名が改称される。薬師ヶ岳⇒久須志岳、大日岳⇒朝日岳、阿弥陀岳⇒伊豆ヶ岳、勢至ヶ岳⇒成就ヶ岳、駒ヶ岳⇒浅間ヶ岳、文殊ヶ岳⇒三島岳、釈迦ヶ岳⇒白山岳。
1878 明治11年 ・ウィリアム・ガウラント(大阪造幣寮(現・造幣局)のお雇い外国人技師化学・冶金技師):槍ヶ岳登頂
・針ノ木新道:(信越連帯新道、富山では立山新道)⇒日本初の本格的な有料道路として長野県大町市野口から針ノ木峠→黒部川→ザラ峠→立山温泉→芦峅寺→富山市原まで全長82kmが開通。しかし、豪雪のためたちまち崩壊し2シーズンで営業中止に追い込まれる。
・フランス山岳会(CAF)創立
1879 明治12年 ・ロバート・ウィリアム、アトキンソンが外国人立山初登頂:(東京開成学校および東京大学理学部で農学関係の学問を教え、日本酒の醸造法を研究した。十文字峠→八ヶ岳→御岳→白山→金沢→富山→室堂→立山→黒部川→針ノ木峠→大町と山行ったという)
1880 明治13年 ・ウイリアム・ガウランド:嘉門次の案内で明神から前穂に登頂。
・上條嘉門次が明神池の畔に小屋を作る。
1881 明治14年 ・アーネスト・サトウ:「中央部及び北部日本旅行案内」を刊行
・イギリスの日本学者チェンバレンが編集した『日本についてのハンドブック』の中で、"Japanese Alps"が初めて登場。この本で信州の山岳地帯の記述を担当したのがウィリアム・ゴーランド(ガウランドとも)で、彼が「日本アルプス」の命名者である。
・内務省地理局測量班:測量登山で初めて3000m峰の赤石岳に登る。
Svea(スベア)をドイツ人機械商人Max Sievertがスウェーデンで創業:1966年、灯油・ガソリン部門をOptimus社に譲ると同時にPrimus(Bahco社)のLPガス部門を吸収合併してLPG製品に集中。
1882 明治15年 ・原田豊三郎が本沢温泉小屋開設:八ケ岳を南北に分ける夏沢峠東側に日本最高所の野天風呂、本沢温泉で八ヶ岳初の山小屋を開設
1883 明治16年 ・窪田畔夫(北安曇郡郡長)、渡辺敏(仁科学校校長:現大町西小学校)、豊島三男(北城小学校校長:現白馬北小学校)、同校教員加納他計9名で白馬岳登山。
1884 明治17年 ・修験行者の植松嘉衛が、甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根五合目に山小屋を建設(五合目小屋)⇒名物小屋番だった古屋義成氏が1999(平成11)年に亡くなリ、無人となり荒廃し取り壊される。
・スイスでカール・エルズナーがビクトリノックス(Victorinox)を創業。:1891年にナイフをスイス軍に納入。1897年にツールナイフの基本形「オフィサー」の特許を取得。1909年からハンドルにスイスの国旗を入れるようになる。2005年にウインガーを買収する。⇒「Victorinox」の名前の由来は母親の「ビクトリア」とステンレスのフランス語の略語「イノックス」を組み合わせた造語。
1885 明治18年 ・上高地牧場開設:⇒後に発起人筆頭の上條百次朗が社長となり、上高地牧場を株式会社化。
・坂市太郎(ばんいちたろう:地質調査所技官):地質調査のため梓川を遡り、槍ヶ岳に登り、三俣蓮華岳に縦走。(坂は1888年夕張炭田を発見した技官)
1888 明治21年 ・陸地測量部条例公布(勅令) により陸軍参謀本部測量局が参謀本部直属の独立官庁として陸地測量部となる。敷地は、現在の水準原点(東京三宅坂)付近に置かれていた。
・測量が始まり点の記(てんのき:基準点「三角点・水準点・基準多角点など」の設置・測量の記録のこと。)の記録が始まる。⇒基準点の選点・埋標・観測それぞれの日付および従事者名、当該点に至るまでの道のり等の情報が記されている。国土地理院で照会できる。
・7月15日:磐梯山噴火時に小磐梯が山体崩壊をおこし、発生した岩屑なだれにより北麓の集落が埋没するなどの被害を及ぼし477人の死者を出す。⇒日本赤十字社が初めて民生活動を行なう。
・ウォルター・ウェストン:英国国教会伝道協会の宣教師として初来日(明治27年まで滞在)
・原田豊吉「日本地質構造論」で「飛騨山脈」の命名。
1889 明治22年 CAMP(かんぷ)は、コデガ・ニコルがイタリアのアルプス山中、海抜1000mの場所に位置する村、プレマナで鍛冶屋を開いたことから始まる。1920年に登山用のピッケルの製造を開始。
・平野長蔵:尾瀬燧ケ岳初登頂。
1890 明治23年 ・ウェストン:阿蘇山と祖母山を登る。
・平野長蔵:沼尻に行人小屋を設置(尾瀬開山の年)。
・三好学博士が庚申山で「コウシンソウ」(食虫植物・天然記念物)を発見。⇒三好学は岐阜県恵那市(岩村藩)生まれの帝大教授で桜と菖蒲研究の第一人者である。日本に「記念物(独:デンクマール:denkmal )の概念を広め、また「景観」(独:Landschaft)という言葉を生み出した人物であるとされる。
・利尻岳登頂:紀州の行者天野礒次郎が現在の港湾地区から登り不動明王像を山頂(北峰)に安置。登山道整備に3ヶ月を要したという。不動明王像は現在鷲泊の大法寺が保管。
1891 明治24年 ・ウェストン:浅間山、槍ヶ岳(試登)、御岳、木曾駒ヶ岳、富士山に登頂⇒日本近代登山の父、ウォルター・ウェストンが上高地を初めて訪れる。
・水準原点が陸地測量部のあった現在の国会前庭洋式庭園内に設置される(千代田区永田町一丁目一番二 (国会前庭北地区、憲政記念館構内)。
1892 明治25年 ・ウェストン:富士山、乗鞍岳槍ヶ岳登頂。赤石岳に登頂:外国人初登頂。
・日本経緯度原点設置:東京麻布の東京天文台(現:国立天文台)が天体の子午線通過の時刻を測定する装置(子午環)の中心を日本経緯度原点として定める。⇒三等三角測量開始
・5月28日、アメリカ最古の自然保護団体「SIERRA CLUB:シュラクラブ」がカリフォルニア州サンフランシスコ市で創設。初代会長ジョン・ミュア⇒クラブが作って会員に配ったのがシュラカップの起こりである。(現在の会員数130万人といわれる。)
・この頃「對山館」開業(大町八日町)
・携帯用ストーブメーカー「プリムス」(Primus)スウェーデンで創業:スェーデン人Frans Wilhelm Lindqvistは「灯油などの液体燃料に圧力を加えて小さな出口から吹き出させると霧状になる。それを燃やすと完全燃焼に近くなって燃焼効率が良くなり、煤(すす)の発生も押さえられる。」という原理を応用した「煤なし灯油ストーブ」の特許を1892年に登録。彼はそれを友人や隣人に売り大変好評だったので本格的な会社組織とする。Primusの名が誕生。⇒ラテン語であり「最上の」という意味の単語。英語の辞書にはPrimus (stove)で「携帯用石油ストーブ」と記載されており、英語圏ではPrimusがこの種のストーブの代名詞。⇒2009年の映画「剱岳点の記」の中で小島烏水と岡野金次郎が柴崎芳太郎に新型ストーブを紹介する場面が画かれていた。
1893 明治26年
・館潔彦(参謀本部陸地測量部 技官:三重県桑名出身):前穂高に初登頂。その2週間後に登ったウエストンはその著書「日本アルプス登山と探検」で、「政府の役人(館潔彦のこと)が穂高岳の最初の登山に成功したが、そのとき彼は山頂近くの岩場で滑落し、岩に激しくぶつかつかり、18mほど放り出されたが、奇跡的に助かった」と記している。
鵜殿正雄:日本人登山家として前穂高岳に初めて登る(案内人嘉門次)。
・ウェストン:恵那山、富士山、大町から針ノ木越え、立山、前穂高岳。(穂高の案内人は嘉門次と上條万作)
1894 明治27年 ・志賀重昂(しげたか:愛知県岡崎市出身):日本風景論を刊行 「・・登山の気風を興作すべし」と記する。日本風景は地球上で特絶なものである。その特徴は「瀟洒」、「美」、「跌宕」の3点であるとしている。⇒山の本参照
志賀は1902年以降、国会議員も務め、日露戦争中は、第三軍司令官・乃木希典大将の外交折衝顧問という立場で従軍。3度にわたる渡航で世界各国を巡り、『世界山水図説』などを著した。
・ウェストン:白馬岳、笠ヶ岳、常念岳、御岳
1895 明治28年 ・2月:野中到が厳冬期の富士山初登頂
・10月~12月:野中到・千代子夫妻が富士山山頂で気象観測を行なうも越冬はならず。(新田次郎の「芙蓉の人」のモデル。
・五万分の一地形図作成開始
・ウェストン:日本を離れ帰国する。
大倉喜八郎南アルプス南部を買い取る:間ノ岳から南部の山林(徳川家の直轄地)を徳川家の重臣酒井忠惇より5万円(別の資料では35000円)で買取る。くさび状に突出した静岡県の最北端、北は間ノ岳から東側(山梨県境)を農鳥岳・笊(ざる)ヶ岳をはじめとする白根山系、西側(長野県境)を塩見岳・荒川岳・赤石岳系とにはさまれた急崚な奥地山岳林で最低標高が960m。大井川の最上流部に位置した、東西の最広部役13km、南北約33kmの面積は約24.430ha。これは、民間が日本国内に所有する森林としては最も広く、東京のJR山手線で囲まれる面積の4~5倍に相当。購入後ただちに、東京帝大助教授の右田半四郎に山林調査を依頼、その結果、豊富な森林資源・水資源が判明。井川社有林の木材資源と大井川での水力発電を組み合わせた事業が東海パルプの起源。
1896 明治29年 ・ウェストン:ロンドンで『MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS』「日本アルプス登山と探検」刊行
1898 明治31年 ・ドイツ南部アウグスブルグでハンス・ドイターにdeuter(ドイター)創業。当初郵便局の集配袋を作っていた。
1899 明治32年 オプティマス(OPTIMUS):カール・ボーズ、カール・ナイグリック、ペーター・オストベルクという3人の技術者によってスウェーデンで創業。Optimus社はLPガスは手掛けずに液体燃料のストーブを主力とする方針を採った。そして1962年にPrimus、1963年にRadius(ラジウス)、1966年にはSvea(スベア)の灯油・ガソリン部門を吸収した。
Coleman(コールマン)創業:創業者はWilliam C. Colemanが液体燃料ランプのレンタル業を始めたことが発端。1905年には自社生産を開始。1942年には軍の要請を受けてGIストーブと呼ばれる小型のストーブを開発した第二次世界大戦で大量に使われる。戦後ストーブ以外のアウトドア用品にも広がり1954年にクーラーボックス、1962年にテント及びスリーピングバッグを商品化。1976年(昭和51年)に日本コールマン(現コールマンジャパン株式会社)が設立される。
1900 明治33年 武田久吉(ひさよし)をはじめ東京府尋常中学校(現日比谷高校の前身)の動植物好きの学生7名が「日本博物学会」を設立。⇒翌年「日本博物学同志会」に改称。
・オーストリア公使夫妻北岳外国人初登頂(芦安村誌)
1901 明治34年 ・長野高女が戸隠山に集団登山。
・野中到:「富士案内」を刊行。
1902 明治35年 ・1月:陸軍第8師団の青森歩兵第5連隊が八甲田山雪中行軍中に猛吹雪に遭い、訓練参加者210名中199名が死亡する。日本の冬山登山史上もっとも多くの遭難者が発生した八甲田山雪中行軍遭難事件
・小島烏水と岡野金次郎:槍ヶ岳登頂⇒小島烏水の(余が鎗ヶ嶽登山を思い立ちたるは一朝一夕にあらず。何が故に然りしか。山が高ければなり。山尖りて嶮しければなり。)はあまりにも有名。
・ウェストン:英国福音伝播教会の宣教師として再来日。
・ウェストン:北岳(8月)
・アメリカ山岳会(AAC)創立
1903 明治36年 ・ウェストン:甲斐駒ヶ岳、浅間山
・平野長蔵:沼尻に長蔵小屋を建設。⇒大正4年(1905年)長蔵小屋を尾瀬沼東岸に移設。
1904 明治37年 ・ウェストン:7月12日から26日、芦安から鳳凰山―広河原―北岳―仙丈ケ岳―戸台の山行。15日に有名な地蔵仏初登攀。仙丈ケ岳も外国人初登頂。⇒芦安村の案内人清水長吉(日本アルプス再訪には・・彼らは単なる強力以上の存在であり、私の忠実な仲間であり、助力者であった・・嘉門次、長吉その他がそうであった。」と書かれておりウェストンが嘉門次、長吉に信頼を置いている様子が伺える。
・ウェストン:妙高山、高妻山、八ヶ岳、富士山
・エミリー・ウェストン戸隠山、高妻山登頂(蟻の塔渡りに立つスカート姿の写真が残っています・・当時はまだ木があったようです。)
・後方羊蹄山:倶知安ルートが開削される。
Thermos(テルモス)ドイツベルリンで創業:ドイツのガラス職人ラインホルト・ブルガーは、ガラス製の真空ボトルを一般的に使えるように保護用の金属ケースで被うことを考案し、パテントを1903年にドイツで取得する。翌1904年にブルガーは、アルベルト・アッシェンブレンナー、グスタフ・フォン・パーレンとともにTHERMOS G.m.b.H.(テルモス有限会社)をベルリンに設立し、商品としてガラス製魔法びんの生産を開始する。ちなみにブランド名のThermos(テルモス)はギリシャ語の「暑熱・夏の意」から来たもので英語読みではサーモス(Thermos)です。
1905 明治38年 ・3月21日帰国前のウェストンは小島烏水、岡野金次郎(横浜市保土ヶ谷区出身)、武田久吉、高野鷹蔵をオリエンタル・パレス・ホテル昼食に招き、山岳会の設立をすすめる。⇒25日・ウェストン:再度日本を離れ帰国する。。
・10月14日:「日本博物学同志会」の支会として「山岳会」結成。:創立時の会員393名小島久太(烏水:香川県高松生まれ、銀行員:横浜正金銀行⇒戦後GHQの指令により解体後東京銀行⇒現:三菱東京UFJ銀行、当時31歳)、高野鷹蔵(ヨウゾウ当時21歳:後蝶学者)、武田久吉(ヒサヨシ当時22歳、後植物学者、アーネスト・サトウの次男)、梅沢親光(当時20歳)、河田黙(じずか当時19歳)、城数馬(当時41歳、弁護士、朝鮮高等院長)、高頭仁兵衛(名は式「しょく」。字(あざな)は義明、当時28歳、新潟の豪農「三島郡深才村:現長岡市生まれ」)等日本山岳会最初の会合が行われた。⇒日本博物学同志会「博物之友」第5年第29号「山岳及ビ山岳ニ関スル一切ノ事ヲ研究スル目的ヲ以ッテ本会内ニ「山岳会」ト称する一支会設立サレタリ」。高頭式は山岳会の会計に欠損ある場合、向こう10カ年間、毎年千円(当時の会費千人分)を提供する。ただし10年たって自立できなければ解散すること、万一の場合を考慮し、ただちに山岳会のために、養老保険一万円に加入する、との確約が成立。
・山崎直方(地理学者):立山雄山山頂の西側にある幅約400m、長さ約600mの小さな圏谷(氷河時代の痕跡)を発見⇒山崎カール。
・木曽駒ヶ岳:剣ヶ峰小屋営業開始→大正3年に宝剣小屋に改称→その後「宮田小屋」→宝剣山荘と変わっている。
・後方羊蹄山の山麓にある倶知安村(現在の後志支庁所在地倶知安町)に蝦夷富士登山会が発足。(昭和10年代まで活動したという)
・青柳尭次郎:上高地温泉ホテルを開業
・瘤(こぶ)山を瑞牆山に改名:第16代山梨県知事武田千代三郎が瑞牆山に改名。
1906 明治39年 ・松沢貞逸:38年に白馬岳山頂の測量用の石室の使用権を買い取り改装して山小屋を開業(現・白馬山荘)本格営業は40年から。
・高頭式(1877-1958第2代日本山岳会会長):「日本山嶽志」刊行。2130座、紙数1360頁の大作
・「山岳」第1年第1号発行
TUBBS(タブス)米国メイン州ノルウエーという町で創業:WalterF.Tubbsによりアッシュ(トリネコ材)製スノーシュー・スキー、ソリ並びに家具製造会社として設立される。スノーシューの代表的メーカーで最大のシェアーを誇る。
1907 明治40年 ・測量官柴崎芳太郎(山形県大石町出身)測量隊剱岳初登頂:7月12日劔岳に三角点設置のため測夫(助手)の生田信(のぶ:静岡県千頭(現在の川根本町)の出身)が宇治長次郎の案内で初登頂(岩本鶴次郎、宮本金作)。・7月27日第ニ登:柴崎芳太郎、測夫木山竹吉(鳥取県東伯郡市勢村浦安出身)、案内人宇治長次郎、宮本金作(薬師岳東面の金作谷カールにその名が残る)、山口久右衛門、南川吉次郎。 ⇒新田次郎「剣岳点の記」より。平成16年の点の記では選点は明治40年7月13日となっている。
・岩場の険しさから重い三角点標石を運び上げることができず三等三角点の設置を断念し、標石のない四等三角点とした。そのため、三角点の設置場所を記載する「点の記」は作成されず。⇒そして剱岳の点の記は97年後の2004年(平成16年8月24日 に作成される。
1908 明治41年 ・飛騨山岳会設立:大正10年に解散し、大正12年に再結成
1909 明治42年 ・7月24日、日本山岳会の吉田孫四郎、河合良成、石崎光揺、野村義重ら4名が宇治長次郎の案内で劔岳登頂(第ニ登)。
・河田黙:仙丈ケ岳登頂
・芥川龍之介ら東京府立三中(現両国高校)の中学生4名が、槍ヶ岳に登頂。
・「日本博物学同志会」の支会としての「山嶽会」が「日本山嶽会」と改称し独立。
・スイシの登山家ルイス・Raichle(ライケル)が登山靴を製造開始:スイス軍御用達ブランド。
1910 明治43年 ・二万五千分の一地形図作成開始
・現在のような吊り橋として初代河童橋ができる。
・日本山岳会ウォルター・ウェストン師名誉会員に推挙。
1911 明治44年 ・オーストリア軍人テオドール・フォン・レルヒ少佐が新潟県の高田連隊でツダルスキーが開発したスキー技術を伝授。
・「信濃山岳研究会」が結成:長野師範学校卒業生の矢沢米三郎、河野齢蔵、小田四十一、田中貢一等。会長は当時長野県松本女子師範学校長矢沢米三郎で、副会長は同校教頭だった河野齢蔵。
・ウェストン:クライスト・チャーチのチャンプレンとして3度目の来日。
L.L.Bean (エル・エル・ビーン):レオン・レオンウッド・ビーンによってアメリカ・メイン州のフリーポートで創業。「ビーンブーツ」という愛称で知られる皮にゴムコーティングをしたメイン・ハンティングシューズを開発したところからはじまる。
・ウェストン:三度目の来日
1912 明治45年
大正元年は7月30日 から
・ウェストン:有明山、燕岳、槍ヶ岳(妙義山のガイド根本清蔵)、奥穂高岳
・上高地養老館(五千尺ホテルの旧名)開業
1913 大正2年 ・8月26日:長野県中箕輪尋常高等小学校の児童25名、同窓生9名、引率教師赤羽長重校長他2名の総勢37名は急変した台風の中を伊那小屋(現在の宝剣山荘といわれているが、実際はその側にあった小屋のようである。)の破小屋を修理してビバーグを試みる。翌27日未明から暴風雨をついて下山をはじめ,駒飼ノ池、濃ヶ池、将棊頭にわたり分散したが力尽きて赤羽校長以下11名が遭難死(疲労凍死)。
・10月1日「遭難記念碑」が建つ。 「大正2年8月26日 中箕輪尋常高等小学校長赤羽長重君は修学旅行のため児を引率して登山し、翌27日暴風雨に遭って終に死す。 共殪者 堀峯、唐沢武男、唐沢圭吾、古屋時松、小平芳造、有賀基宏、有賀邦美、有賀直治、北川秀吉、平井 実 大正2年10月1日」(*共殪者:共に倒れた者の意味。)
この遭難が新田次郎の「聖職の碑」のモデルとなった。それを原作として1978年鶴田浩二主演の映画も作られた。
・北アルプスを中心とする5万分の一の地形図が販売される。
・ピッケルが正式に輸入されるようになる。初代のエルクやフプアウフの作になる物でヘッド長18㎝程度に対して全長は1mを越える物。
・ウェストン:上条嘉門次の案内で槍ヶ岳、北鎌尾根を登攀(根本清蔵も同行)。後奥穂高岳、霞沢岳に登頂。焼岳、白馬岳
・日本山岳会の近藤茂吉剣岳第ニ登:長次郎谷~剣岳~別山乗越の初縦走に成功。案内人佐伯平蔵、宇治長次郎他1名は平蔵谷を下る。このとき近藤により平蔵谷と命名される。⇒近藤茂吉は剣沢のニ股に「近藤岩」という巨岩に名を残す。
・富士登山駅伝競走大会開始:金栗四三が発起人⇒現在の秩父宮杯は1976年(昭和51年)に復活した大会を第1回としている。2005年大会から自衛隊の部と一般の部に分かれる(高低差の3,199mは駅伝の高低差としては世界一を誇る。)
・上高地温泉株式会社が徳本峠小屋建設
・柴崎芳太郎:日本山岳会入会
ラジウス(AB Radius)創業:プリムスの工場で労働争議が起こり会社を飛び出した社員がスウェーデンストックフォルムで携帯用ストーブの新会社を興す。初代社長はプリムス時代に労組委員長だったヨハンソン(J.T.Johansson)が就任。後発のラジウス社は、既にプリムス等の勢力が強かった欧米を避けて新市場を中東やアジア、日本に求め、そのため日本の古い登山家の殆どが「携行ストーブ」と言えば「ラジウス」を連想し、ラジウスというのは「メーカ名ではなくて登山用ストーブのこと」だと誤認している登山家も多いのだという(英語圏ではPrimus:プリムスがこの種のストーブの代名詞となっているのと異なる)。その後1963年(昭和38年)にオプティマス社に商標を譲渡したが、その商標は使われず50年の歴史を閉じる。
1914 大正3年 ・ウェストン:立山温泉から針ノ木峠越え、燕岳、大天井岳、富士山
・桜島の大噴火:1月12日から噴火が始まり29日には瀬戸海峡(距離最大400m最深部100m)を溶岩が埋め尽くし大隈半島と陸続きになる。当時の測候所は住民の問合せに白煙は単なる雲であると回答し避難の必要はないと回答した。噴火後、避難が大混乱した。このことから鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には「住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されており、「科学不信の碑」とも呼ばれている。
・6月:焼岳大爆発:噴火で梓川が堰き止められ大正池ができる。
・小川テント創業:東京都八丁堀に㈱小川治兵衛商店として創業
・ザックの「片桐」がザック製造を開始:隅田川の鉄砲洲でヨット・帆船の帆を製造する帆布屋・片桐商店の初代・片桐貞盛が日本山岳会発起人の一人である高野鷹蔵氏より、『片桐の丈夫な帆布でヨーロッパ風のリュックサックの製造してほしい』との依頼を受けたことを受けてザック製造を開始。
HAGLOFS(ホグロフス)ヴィクトル・ホグロフにより創業:森で働く人々のためにパラシュートの素材を使用したシンプルで機能性に優れたバッグを作った。
・槇有恒、慶応大学山岳会創部
1915 大正4年 ・内藤千代子(小説家):槍ヶ岳と奥穂高岳に登頂。これは日本人女性初の踏破であった。
・焼岳大噴火を起こし桂川をせき止め大正池ができる。
・ウェストン:日本を離れる。
1917 大正6年 ・冠松次郎:早月尾根から劔岳に初登頂
村井米子(16歳):富士山初登頂(⇒料理作家村井弦斎の娘、割烹着の発明者といわれる。米子は女流登山家の女王といわれ、NHKのデレクター)
・穂苅三寿雄:ババの平にアルプス旅館(現:槍沢ロッジ)を開業
・百瀬慎太郎:大町に日本初の登山案内者組合が結成
・上條嘉門次死去:(1847年(弘化4年)10月14日 - 1917年(大正6年)10月26日)
1918 大正7年 村井米子:芦峅寺の村民の反対を受けながら立山に登頂
1919 大正8年 田部重治:『日本アルプスと秩父巡礼』を刊行(1930年(昭和5年)に『山と渓谷』として出版される)。
・松沢貞逸:四ッ谷(白馬)登山案内者組合結成
・山田利一:常念小屋建設。北アルプス稜線上にある小屋としては、最も古い。
・富山県立女学校、同女子師範学校が48名で立山に三泊四日の合同登山を実行:女学校の佐々木松蔵校長の発案といわれ、富山県知事が勅命で幣帛を雄山神社に奉献する奉幣使の登山の別働隊として同時登山を計画し実行。
・堀金小学校校長佐藤藤山(とうざん):前常念に石室を建設。
・藤木九三、朝日新聞神戸支局長となり、西宮市甲子園に住み、六甲山の岩場をロック・ガーデンと命名する。
・学習院山岳部創部。
1920 大正9年 ・槙有恒:ヴエッターホルン(3703m)に登頂、その後メンヒ(4105m)からアイガー(3975m)を縦走
・7月2日、谷川岳初登頂:日本山岳会望月敏男と森喬が剣持政吉を案内人として新潟側土樽から茂倉岳、一ノ倉岳、谷川岳、天神尾根から谷川温泉に下る。
・7月30日、竹内ヒサ(22歳)剱岳を女性として初登頂。大町(22日)→針ノ木峠→黒部渓谷(24日)→ザラ峠→立山・一の越、立山→長次郎谷で野営(29日)→剱岳→小窓→馬場島→上山(8月1日)。ヒサの夫鳳次郎が彼女を伴い「剣岳」に登った記録を1921年の「山岳」第15年に「女子剱岳登山記」として発表。
・7月:土橋荘三:北釜尾根初完全踏破(松本市の洋服店主。:鳥川一ノ沢⇒常念小屋⇒横尾二ノ俣⇒槍沢⇒坊主の小屋⇒北釜尾根を槍の絶頂より高瀬の渓谷に降下⇒尾根伝い縦走⇒天井沢の奥、貧乏沢⇒高瀬源流を下る⇒カラ滝の尻(湯俣・水俣の出会い)小林喜作が案内)
・京都山岳会結成:創立時4名。大正18年京都山小屋倶楽部と合併。
・東洋アルミナム会社によって「水平歩道」が開かれる。:黒部川の水力開発を目的として黒部川の上流域に設けられた欅平から仙人谷まで黒部渓谷の左岸の絶壁を「コ」の字にくりぬいて作られた約13kmの登山道で、70cmから100cm程の幅で標高約1000mの等高線に沿って水平に伸びる。後に東洋アルミナム会社が日本電力株式会社に経営を譲渡したため、「日電歩道」とも呼ばれる。
・小林喜作、長男(一男)と大天井岳から槍ヶ岳まで喜作新道を開削し開通。
Eddie Bauer (エディー・バウアー)創業:シアトルで自身の名を用いてスポーツ用品店を創業したのが始まり。1936年には、ダウンパーカーを発案した。⇒2009年連邦破産法11条申請。
CAMP(カンプ)イタリアベニスで創業:ゴンドラの船首に付ける飾り金具の職人アントニオ・コデガが叔父にピッケルの製作をたのまれ20本のピッケルを造ったのが始まりといわれる。
早稲田大学山岳部創部。
1921 大正10年 ・槙有恒:9月10日、アイガー・ミッテルレギ(東山)稜(3975m)を初登頂。(案内人同行者、ブラヴァンド、ストイリ、アマター)
・穂苅三寿雄:大槍小屋(現:大槍ヒュッテ)開業するも雪崩で全壊する。
・赤沼千尋が燕の小屋(現:燕山荘)を開業
MILL(ミレー):モンブランの麓にある街サランシュでマルク=ミレー夫妻によって誕生
・赤沼千尋、燕ノ小屋(現燕山荘)建設:ガラス窓のあるお洒落な山小屋でカレーライスが出され、コーヒー紅茶が飲める山小屋と評判。屋根にトタンを採用し天水を利用した我が国最初の山小屋。→昭和3年に燕山荘(えんざんそう)と改称
1922 大正11年 ・小林喜作:殺生小屋(現:殺生ヒュッテ)を開業⇒しかし所有関係は複雑で喜作が死んだ翌年小林家の管理を離れる。⇒詳細は山本茂実著:喜作新道ある北アルプス哀史朝日文庫に詳しい。
・7月5日早稲田大学(案内人なし。リーダー舟田三郎、麻生武治、仏人ジャン・ベルベール)と学習院隊(案内人小林喜作・OB板倉勝宣(北大)、松方三郎(京大)、伊集院虎一(東大))が同日に北釜尾根登頂
・8月26日土橋荘三:小槍初登攀:(土橋はその2日前に上高地から穂高槍ヶ岳への縦走中、暴風雨にあい北穂の尾根から南稜に迷い込み遭難し、小林喜作に救出されている。)
・奥原英男:島々登山案内者組合結成⇒現:上高地登山案内人組合
・明治大学山岳部創部。
1923 大正12年 ・板倉勝宣:槙有恒、三田幸夫(1963年のマナスル第一次登山隊隊長。日本山岳会会長も歴任)と共に立山登山中、1月17日立山弥陀ヶ原の松尾峠において遭難。享年26歳。 ⇒この遭難がきっかけとなって大正15年避難小屋(スゴ乗越小屋の前身)が建てられたという。
・伊藤孝一(名古屋の資産家)、赤沼千尋、百瀬慎太郎:日本初の山岳映画「雪の立山・針ノ木越え」を製作.⇒総費用は20万円現在の金額で20億円程の膨大な金額であった。
・小林喜作(49歳)、長男(一男:22歳)狩猟中、棒小屋沢で雪崩にあって死亡。(3月?)一緒にいた大井庄吉(45歳)、荒井矢蔵(37歳)と小屋で一緒になった3名の猟師は助かる。この為喜作謀殺説が囁かれる。
・河田禎(みき:銀行員):日本初の山岳ガイドブック「一日二日の山旅」刊行
・上高地温泉㈱が、徳本峠小屋を建設。
・3月18日(日)ニューヨーク・タイムスに英国の登山家ジョージ・マロリーが「なぜ、あなたはエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるからBecause it is there.)」と答えた記事が掲載される。これを日本語に翻訳したのは藤木九三であった。(藤木は福知山市生まれの新聞記者で登山家・詩人でもあり、RCCを結成し穂高滝谷の初登攀者)
・金属運動具製造卸、増新商店(現:EVERNEW エバーニュー)が蔵前で創業。⇒「エバーニュー山岳映画ライブラリー」は秀逸。1960年から70年代にかけて同社が山岳紹介と啓蒙活動のため製作し全国で公開していた16mmフイルム山岳映画がフラッシュビデオ化され同社のホームページで公開されている。
LOWA(ローバー)ドイツ人ローレンツ・バーグナーが創設:軍事用ブーツ製造で大きく発展し戦後は再び登山靴作りに専念
1924 大正13年 ・赤石岳の積雪期初登は5月、一高の浜田和雄、塩川三千勝、佐藤捨三の3名により達成。
・6月8日?:エベレストで山頂を目指したジョージ・リー・マロリー(38歳)とアンドリュー・アーヴァン(22歳)が行方を絶つ。山頂に立ったのか?(当時の装備は乗馬服のような冬用ツイードのジャケットにマフラーにゲートルを巻いた格好だったというからビックリ・・・カメラはジャバラの「コダック・ベストポケット・モデルB(Vest Pocket Model B)」だったという)。
・槇有恒の寄付によりアイガー・東山稜にミッテルレギ・フュッテ(Mittellegihütte小屋)が建設される(2001年に建て替えられ、保存のためアイガーグレッチャー駅上の丘に移築)。
・大月桂月:農鳥岳登山。この時「酒のみて高根の上に吐く息は散りて下界の霧となるらん」の歌を詠む。東農鳥岳に歌碑が建っている。
・今田重太郎:奥穂高白出のコルに石室を造り穂高小屋の基盤をつくる。
・烏帽子小屋を上条文一建設。
・手掘り工事により旧釜トンネル開通。
・西岡一雄:大阪で登山とスキ-用具店「好日山荘」を日本ではじめて創業する(人の世の交りは日々好日でなくてはならないと)。
・日本大学山岳部:法学部学生豊島擴によって創部。
・法政大学山岳部創設。
1925 大正14年 ・冠松次郎:宇治長次郎の案内で黒部川下廊下を完全遡行し十字峡などを発見。「黒部の父」と呼ばれる。
加藤文太郎:白馬岳と富士山にの彫り本格的に登山活動開始。
・今田重太郎:白出のコルに穂高連峰初の山小屋「穂高小屋(20人収容)」完成(現:穂高岳山荘)。
・百瀬慎太郎:大沢小屋を開業
・山田利一:一ノ俣小屋を開業(昭和8年にヨーロッパアルプス風の山小屋に新増設され、風呂のほかに牛肉のステーキを食べさせるということで話題を呼ぶ。昭和18年に大学山岳部員の火の不始末で焼失。昭和22年に横尾に移転⇒横尾山荘)
・全国五万分の一地形図刊行完了:「参謀本部の地図」「陸測の五万」と呼ばれる。
・池の平小屋建設:所属富山営林署、小屋番、立山村芦峅寺・佐伯軍蔵、収容25人。
Trangia(トランギア)スエーデン、トラングスヴィッケンで創業:アルミ調理器具とアルコールバーナー。
1926 大正15年
昭和元年
(12月25日 - 12月31日:昭和元年はこの一週間のみ
。)
・今田重太郎:白出沢から穂高小屋に登山道開通
・穂苅三寿雄:槍ヶ岳に肩の小屋(現:槍ヶ岳山荘)を開業
・オックスフォード大学留学中の秩父宮雍仁親王殿下(大正天皇と貞明皇后の第二皇子。今上天皇の叔父にあたる。):スイスアルプス10数峰を登る。⇒同行者は松方三郎、渡辺、松本重治、細川、浦松佐美太郎、藤木九郎(朝日新聞社特派員)槙有恒。ウエストン師も途中まで一緒している。
・大倉喜八郎:8月7日翁88歳の時一行200名で赤石岳登頂(これが現在の大倉尾根ルートであるという)。椹島に翁の「赤石の山のうてなに万歳を唱ふる老いも有難きの世や」と彫られた登頂記念碑が立ている。静岡から篭に載り、7日目に山頂に羽織袴で立ち、両陛下と摂政宮殿下(昭和天皇)の万歳を三唱し、国旗を掲げた後、山頂で湯豆腐を食べ、供の者に風呂桶を背負わせて登り、赤石岳の山頂で風呂に入ったと伝えられる。
・モノクロ無声映画:「聖山」.ドイツの山岳映画の巨匠アーノルド・フランク監督作品レニ・リーフェンシュタールの女優デビュー作
・北大山岳部創部:北大スキー部と恵迪寮旅行部を前身として結成される。
BARIGO(バデゴ):ドイツ、シュツットガルトで気圧計メーカーとして創業。コンパクトな登山用時計メーカ。
1927 昭和2年 ・京大の高橋健治ら4人が第五尾根から北岳バットレス初登攀。
・加藤文太郎:赤石岳―聖岳―荒川岳―塩見岳―白根三山の単独行(8日間)。
雪山賛歌昭和2年1月、鹿沢温泉でスキー合宿をした京大山岳部は天候の悪化により宿に閉じ込められてしまった。そのときつくったのが雪山賛歌。当時部員として参加していた西堀栄三郎氏(第1回南極越冬隊長)が作詩したものという。
・大阪毎日新聞社、東京日日新聞社共同企画、鉄道省後援のもとに「日本八景」の選定:当時を代表する文士たちが紀行:華厳滝(幸田露伴)/上高地(吉田絃二郎)/狩勝峠(河東碧梧桐)/室戸岬(田山花袋)/木曽川(北原白秋)/別府温泉(高浜虚子)/雲仙岳(菊池幽芳)/十和田湖(泉鏡花)
・富士山佐藤小屋完成:佐藤順一が東京自動車学校鈴木靖二校長の寄付を得て観測小屋「佐藤小屋」を山頂東安河原に完成、気象観測は昭和6年(1931)まで続いた。
・芥川竜之介「河童」発表:上高地と河童橋を登場する。
・秩父宮殿下(昭和天皇の実弟)が上高地から奥穂高岳に登り槍ヶ岳への縦走。
・上高地の河原で日本最初の「ケショウヤナギ」を発見:理学博士中井猛之進が国立公園選定の準備調査の中で発見する。ケショウヤナギの若木の木肌はシラカバのように白く、小枝は晩秋から春にかけて紅く、美しくお化粧をしたように見えることから、化粧柳と名づけられた。上高地のケショウヤナギは大正池付近では見あたらず、中ノ瀬園地(大正池と河童橋の中間の田代橋辺り)から横尾までの河原・川岸のみに自生し、山の斜面では見つからない。河童橋のそばには大木もある。
・(有)石井製作所(現㈱エキスパート・オブ・ジャパン)が巣鴨で設立。現在は埼玉県川口市クロ-ムモリブデン鋼を使ったアイゼンなどを製造。
1928 昭和3年 ・大島亮吉:前穂高岳・北尾根Ⅳ峰で墜落死(享年29歳)⇒彼の残した言葉には登山者であれば誰もがうなずき得る素晴らしい名言が多い。
①「風の歌は山の歌だ」、②「春に行ってよかった山には秋にも行こう」、③「道のありがたみを知っているものは、道のないところを歩いたものだけだ」、④「山へ行け!君がその憂鬱(ゆううつ)のすべてをばルックザックに入れて。そしてこのあおあおと大気のながれる、あかるい巌(いわお)の頂きにのぼり来よ。しかる時、いまや君の負うその重き袋は、悦びのつまった軽き袋にかわり、心は風のようにかろく、気持ちは蒼空(あおぞら)のようにはればれと、ほがらかになり、しかも山上の花野の上に横たわり、夕栄の圏谷の底に立っては、君はまさにたのしい夢想とらん惰の賓人(まろうど)となるであろう。」・等

・藤木九三(くぞう)が水野祥太郎、西岡一雄等が神戸でRCC(Rock Climbing Club)設立。⇒登山の真髄たるロッククライミング並びにスノー・クラフトに関するテクニックの研究及びトレーニングを目的とする。(昭和7年に解散)
・上高地が国の名勝および天然記念物に指定
・秩父営林署と秩父鉄道が武州雲取小屋を建設(現在の雲取山荘)
・清四郎小屋が尾瀬越後口の入山の自炊小屋として作られる。
・柴田実昭がロゴス(LOGOS)の前身となる大三商会を設立。1985年ロゴスブランドが誕生し、1997年に、社名もロゴスコーポレーションに変更
1929 昭和4年 ・黒田正夫(氷雪研究家)・初子夫妻:中畠政太郎の案内で槍ヶ岳と小槍に登攀し穂高岳からジャンダルムを越えて上高地に下山。黒田初子はいずれも女性初登攀:(料理研究家で女性登山家の草分け2002年に99歳で亡くなる)
・キスリングザックを国内で初めて片桐が製造:昭和4年(1929年)、2代目・片桐盛之助のもとに、槙有恒氏と松方三郎氏が、スイスのヨハネス ヒューク キスリング氏の考案・製作したザックを持ち帰り、それをもとに日本で初めて、キスリング型ザックを製造。
・藤木九三、案内人松井憲三と共に北穂高滝谷を初登攀。 (同年ロッククライミングを解説「岩登り術」を刊行)。
・札幌の門田直馬(52才)、茂(19才)アイゼン製造開始:北大工学部の学生だった和久田弘一(当時21才)から外国製のエッケンシュタイン型8本爪アイゼンを持ち込まれ「これと同じものを作ってくれ」と頼まれ、アイゼン製造を開始。
・仙台の山内東一郎:正式に山内の銘を刻んだピッケルを販売。
上高地徳沢園:徳沢に牧場を移し、徳澤園の前身となる牧監用の木造小屋が建築される。
・モノクロ無声映画映画:「死の銀嶺(DIE WEISSE HOLLE)」ドイツの山岳映画の巨匠アーノルド・フランク監督作品。レニ・リーフェンシュタールによる山岳映画。(氷河での映像がすごい)
1930 昭和5年 ・堀田彌一(立教大学経済学部):積雪期の唐松岳から白馬を縦走
・小川登喜男:谷川岳一ノ倉奥壁ルンゼ登攀
・同志社大学:朝鮮半島白頭山(2744m)積雪期登頂
・H・シュナイダーが来日:玉川学園小原國芳の招聘を受け菅平でのスキー(シュテム・クリスチャニア)の講習を皮切りに各地で講演、技術指導を行なう。
・高橋修太郎:山崎靴店から独立して登山靴、スキー靴専門店を四ッ谷に開業
・川崎吉蔵:「山と渓谷」創刊(隔月刊)
・芦峅寺村:剣御前小舎建設。
・百瀬慎太郎:針ノ木小屋建設。
・県営石室第1号の「種池小屋」の払い下げを受けた平村(現・大町市)が木造に改築。
・札幌の門田直馬(52才)、茂(19才):和久田弘一はスイスのシェンク及びエルクの作になるピッケルを持って門田鉄工所を訪れ、門田親子は和久田の注文に応えてピッケル4本を作り上げる。
・広島山岳会創立: 流川の喜よしにて 年会費:1円20銭 第1回登山大峰山
1931 昭和6年 ・黒田正夫(氷雪研究家)・初子夫妻:厳冬期の槍ヶ岳に登頂。
・加藤文太郎:厳冬期の鹿島槍ヶ岳に登頂。
・堀田彌一:黒部・東谷から鹿島槍ヶ岳、五竜岳に積雪期登頂
・前穂高CBAフェイスを國塩和郎、内山秋人等5名が初登
村井米子:積雪期の穂高に登頂
中村テル:YWCA山岳会創立
・清水基夫(千葉園芸研究科生)が「キタダケソウ」を北岳山頂直下で発見。
・雑誌「山小屋」創刊(朋文堂):低山趣味の雑誌で戦後まで続く。
昭和6年が谷川岳の遭難事故記録の統計開始年。
1932 昭和7年 川森左智子:奥穂高岳からスキー滑降
・加藤文太郎:2月厳冬期の槍ヶ岳~抜戸岳~笠ヶ岳を往復
・今井雄二・貴美子夫妻が劔岳・八ヶ峰、源次郎尾根を登攀
・村井米子:穂高岳、ジャンダルム飛騨尾根を登攀
・唐松小屋を下川富男により開業(昭和35年から唐松岳頂上山荘と改称)
・荒井重永:冷池小屋建設。(昭和10年の初冬重長親子が遭難死し、翌11年には管理人も転落死し、小屋の管理を平村(大町市)に譲り渡す。⇒冷池山荘は村営小屋となる。⇒戦時中の昭和18年柏原長寿が譲り受ける。)
・海野治良氏が西岡一雄氏と共に:東京神田に「好日山荘東京店」を開店。
・ハイキング創刊
・富士山頂山頂:東安河原に「中央気象台臨時気象観測所」を設立、通年観測を開始。
1933 昭和8年 ・加藤文太郎:積雪期の上高地、槍ヶ岳、穂高岳、上高地、乗鞍岳を縦走
・今井雄二・貴美子夫妻:穂高岳・滝谷、ジャンダルム飛騨尾根を登攀
・長野県営の上高地帝国ホテル開業(設計:高橋貞太郎)。
・雑誌「山小屋」の読者のファンクラブが「山小屋倶楽部」という山岳団体になる。中村謙(ペンネーム加茂鹿之助)が代表を務める。→加茂鹿之助は「かもしか山行」の言葉の由来となった方である。
・水晶小屋を上條鉄一建設。(昭和21年に伊藤正一氏に譲渡)
・乗合バスを大正池まで延長。
1934 昭和9年 ・YWCA山岳会の三田好子、正子姉妹と東京鉄道局の4名が浅間山で遭難死。⇒(女性初の遭難事故)。
・国立公園初指定:瀬戸内海国立公園、雲仙国立公園、霧島国立公園の3か所
・福島県吾妻山系「吾妻小舎」を「国鉄山の家」として仙台鉄道局が建設(建設費2800円)⇒昭和39年に温湯温泉の管理に移る。
1935 昭和10年 ・京都大学旅行部の加藤泰安が朝鮮最高峰(2744m)の白頭山に遠征
・関西の女性だけの山岳会「クラブ・エーデルワイス」を長谷川静子、上田安子等12~13名で創立。
・岐阜県上宝村が双六小屋を建設。⇒管理に困り荒れ果てた村営小屋を昭和25年小池義清が譲り受ける。
1936 昭和11年 ・1月:加藤文太郎(31歳)が数年来のパートナー吉田富久(27歳)と槍ヶ岳・北鎌尾根天井沢で遭難死。当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じる。複数の同行者が協力し、パーティーを作って登るのが常識とされる当時の山岳界の常識を覆し、単独行によって数々の登攀記録を残す。兵庫県美方郡新温泉町出身。新田次郎の小説『孤高の人』のモデル。三菱内燃機神戸製作所(現在は三菱神戸造船所)勤務。小説の宮村健は吉田富久をモデルとするも小説とは大きく異なる人物であるという。
・京都大学隊が中国東北部の大興安興に遠征
・藤木九三、1月に石鎚山の冬季初登。
・立教大学山岳部による日本初のヒマラヤ遠征隊がナンダ・コット登頂。
・CHC(カメラハイキングクラブ)が結成
・12月19日:上越線土合信号所が駅に昇格開業(谷川岳登山の窓口となる。)⇒1931年(昭和6年)信号所として開設。翌昭和7年:スキー季節中に限り、旅客営業を開始。
・富士山「中央気象台富士山頂観測所」が正式名称となり、山頂剣が峰に新庁舎を建設し移転。
・西尾食品研究所(現:西尾食品株式会社)が大阪で創業:昭和7年に乾燥米(アルファー米)製法の技術開発した元潜水艦技士西尾敏保が創業。アルファー米は同社の登録商標であり、特許であった。しかし、特許は切れたため平成7年に㈱サタケから「アルファー化米(マジックライス)」が発売された。アルファーとは「消化可能な状態を保つ」という意味であり、現在の米は「あきたこまち」が使われているという。⇒サタケは1896年(明治29年)広島の佐竹利市が日本初となる動力精米機を考案し、販売したことが始まり。私達が毎日お世話になる米の精米技術の基礎はこの会社が持っている。
アイガー北壁、トニー・クルツ遭難:ドイツのトニー・クルツとアンドレアス・ヒンターシュトイサーと、オーストリアのエディー・ライナーとヴィリー・アンゲラーの2隊がアイガー北壁を競い、ヒンターシュトイサーが第1雪田の下の難しいトラバース(現在ヒンターシュトイサー・トラバースと呼ばれている)に成功し、更に死のビバークより先に登攀する。しかしアンゲラーが落石を受け負傷したことから2隊は助け合いながら下山を決定。7月21日、トラバースの際、ザイルを回収してしまったことが仇となって退却できず、何とか脱出を試みるもクルツを除く3人が墜落などで相次いで死亡。クルツも救助隊の目の前でザイルで下りる際に救助隊から渡されたザイルのザイルの結び目がカナビラ引っかかり、体力を消耗しきって結び目を通すことができず、7月22日、救助隊の目の前で「もうダメだ」の一言を残して力尽きる。これでトニー・クルツはアイガー北壁の伝説となった。
2008年映画化された「アイガー北壁」のモデル。さらに「運命を分けたザイル2」でもジョー・シンプソンが子供のころ読んだ「しろい蜘蛛」のクルツに憧れてそれをたどるストーリーとして描かれている。
ボブ・ラングレーの山岳冒険小説の名著「北壁の死闘」は主人公がクルツのこの事故を背景に描かれている。
SUUNTO(スント)社がフィンランドで創業:1932年 - トゥオマス・ヴォホロネン(Tuomas Vohlonen )氏が液体封入型のコンパスを発明。1935年 - コンパスを生産開始
1937 昭和12年 ・白馬細野の山案内人をしていた家16戸が警察から許可を受けて民宿として営業を始める。⇒民宿の発祥の地となる。
・上高地にウォルター・ウェストン記念碑建立(レリーフ)
・水上町が谷川岳遭難者慰霊碑が建立。
・燕山莊(えんざんそう)に帝国ホテル社長大倉喜七郎(大倉財閥大倉喜八郎の息子)が7万円を提供、株式会社化する。会長江口定條(さだえ 貴族院議員、満鉄副総裁)、社長赤沼千尋、取締役大倉喜七郎。戦後の財閥解体で大倉財閥の株は赤沼家が譲り受ける。その際建てられた本館部分が現在そのまま残っていている。設計は上高地帝国ホテルを設計したスタッフが担当。
・剣山(つるぎさん)の東に連なる一の森(標高1,879m)の「一の森ヒュッテ」は、頂上付近の樹木で丸太小屋を建てたことに始まる。1974年(昭和49年)現在の建物に改築し木屋平村(当時)営⇒現美馬市営とる。西日本で最も古く歴史あるヒュッテ。
Vibram(ビブラム社)創業:登山家であるイタリア人登山家ヴィターレ・ブラマーニ(Vitale Bramani) により創業され、登山に耐えるソールを開発(靴の底に付く黄色いロゴマークは世界で最も有名なソールメーカーの信頼の証)。
1938 昭和13年 REI(Recrational Equipment Inc)米国シアトルで設立:アウトドア専門の消費者協同組合。(現在の本社本社:米国ワシントン州)現在沢山の日本人が会員となっています。因みに管理者も会員で現在のようにアウトドア用品が豊富でない時代は英語のカタログを取り寄せて船便で届くのを楽しみにしていました。いまだにフリースなど愛用しています。
Columbia(コロンビア)創業:ドイツ系移民のポール・ラムフロムによって帽子問屋としてアメリカで創業.
SCARPA(スカルパ)北イタリアのアゾロ村で創業:林業家用ワークブーツとイタリア軍山岳兵用の軍靴を製造。
・柴崎芳太郎死去(1月29日、享年64歳)
・7月24日アイガー北壁初登頂:アンデレル・ヘックマイヤー、ルートヴィヒ・フェルク(ドイツ人隊) ハインリッヒ・ハラー 、フリッツ・カスパレク(オーストリア人隊)が一緒に登頂。⇒映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」の若きダライラマとの交流はハインリッヒ・ハラー の自伝の映画化である。
1939 昭和14年 ・CHC(カメラハイキングクラブ)から東京山岳写真会が分立。⇒戦後、1948(昭和23)年に日本山岳写真協会(JAPA)に発展
・島々口案内人組合により涸沢小屋開業
・深田久弥:3月に富士山測候所からスキーで山麓まで滑り降りる。
1940 昭和15年 ・泉州山岳会設立。
・乗鞍岳位ヶ原山荘開設
1941 昭和16年 ・大菩薩「福ちゃん莊」茶屋として開業
・日本山岳会社団法人認可。⇒社団法人日本山岳会(JAC)となる。木暮理太郎 会長に就任。
・島々口案内人組合ガイド村上守:西穂高山荘開業
1943 昭和18年 ・大町「對山館」廃業(北アルプス登山のベース大町にあった百瀬慎太郎の旅館で著名な岳人、文人、画家が集う文化サロンとしてその存在が知られていた。)
・柏原長寿:閉鎖されていた村営冷池小屋と種池小屋を平村(現・大町市)から買い取る。
1944 昭和19年 ・戦争の影響を受け「山と渓谷」、「山と高原」、「練成旅行」の三誌を統合。⇒行軍登山・練成の新雑誌「山とスキー」刊行1945年6号まで。
1945 昭和20年 ・8月15日:太平洋戦争終戦
・明治21年5月勅令第25号の廃止とともに陸地測量部は消滅。昭和20年9月1日付けで内務省地理調査所が新たに発足。⇒建設省地理調査所を経て、1960年(昭和35年)に現在の“国土地理院”と改称。
・剱岳、黒部峡谷の名ガイド宇治長次郎死去(10月30日、1871年(明治4年生まれ)享年73歳)⇒立山山麓家族旅行村に像が建っている。
1946 昭和21年 ・第一回国体登山部門を京都で日本山岳会が主催する。実技はなく屋内での研修だけ(日本山岳会関西支部のサイトより)。登山写真展も競技として大阪朝日会館で行なわれている。
・「山と渓谷」月刊誌として復刊。
karrimor (カリマー): チャールズ&メアリーのパーソン夫妻によってイギリス・ランカシャーで創業。ブランド名は「carry more(もっと運べる)」に由来する。
1947 昭和22年 ・石岡繁雄:穂高・屏風岩の中央カンテ(岩壁突出部)に山岳部長をつとめる旧制の三重県立神戸(かんべ)中学(現・神戸高校)の山岳部員ら2名と初登攀に成功。(井上靖の「氷壁」のモデルとなった若山五朗の実兄でナイロンザイル切断事件の真相究明に尽力し2008年6月15日死去)
・山田宏一:横尾山荘建設。
・伊藤洋平「岳人」創刊:伊藤洋平は穂高岳屏風岩に新ルートを開拓し、28年アンナプルナ遠征、31年第1次南極観測隊員をつとめた。昭和38年奈良学芸大教授、48年京大教授となり、「腫瘍ウイルス」の研究で知られる世界的な医学者となる。
1948 昭和23年 ・北岳バットレス中央稜、松濤亮が初登攀(7月)
・福岡登高会パーティーが鹿島槍ヶ岳で遭難
・明神から横尾間に穂苅新道開通
・小山義治(大正9年(1920年)八王子市旧恩方村生):北穂高小屋開業⇒北穂高岳頂上直下標高3100m、「日本アルプスでいちばん高い場所にある山小屋」。
・第1回富士山登山競争が開催される。
・上高地帝国ホテル、接収解除され営業再開
・東京山岳連盟結成:現東京都山岳連盟の前身。昭和30年から東京都山岳連盟。
・東京山岳写真会が日本山岳写真協会(JAPA)に改称。
・吉野満彦(本名服部満彦:新田次郎の栄光の岩壁のモデル)八ヶ岳で遭難。
・神戸市民山の会設立。沢山の市民の方々が、11の山筋において、季節を問わず年中無休で毎日登山を続けている。(平成22年、2万回登山者が2名出た)
1949 昭和24年 ・松濤明(まつなみあきら:東京農大生・享年28歳)と有元克己(享年27歳・農林省技官)が槍ヶ岳・北鎌尾根の千丈沢を下降中、未曾有の猛吹雪に曹禺し遭難死。(1月6日):有元が凍傷で動けなくなるが、吹雪の中、松濤は有元を助け出すことができない。1月6日最後の文章「全身硬ッテ力ナシ, 何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス オカアサン アナタノヤサシサニ タダカンシャ」と死の直前まで日記に書かれており胸をうつ。⇒「風雪のビヴィーグ」。手帳は大町山岳博物館にある。⇒北穂山頂下高滝谷下降ロに松濤のコル、松濤岩の名を残す。
・日本山岳会婦人部創立(村井米子、今井喜美子、川森左智子、佐藤テル、黒田初子、板倉登貴子)(現:婦人懇談会)
・NHKラジオで「夏の思い出」を放送。
・11月11日上高地の主「常サ」と呼ばれた内野常次郎死去(明治17年生)
・九州大学山岳部創部。
1950 昭和25年 ・アンナプルナ(8091m)初登頂:モーリス・エルゾーグ、ルイ・ラシュナル率いるフランス隊によって、初登頂。人類が初めて踏んだ8,000m峰。
・小池義清が小池新道開削:蒲田川左俣のわさび平から大ノマ乗越から双六池に新道開削
・大町市立山岳博物館が開館
・新ハイキングクラブ創立
・雑誌「新ハイキング」創刊(隔月刊、昭和36年から月刊):新ハイキング社設立(社長:澤田武志)
・24年の富士山観測所に名称変更と也25年「富士山測候所」に昇格。
1951 昭和26年 ・秀山莊が山とスキーの専門店開業
・涸沢ヒュッテ開業:雪崩で2度流失しており、1953年(昭和28年)の3度目に建てられたのが現在の本館。⇒前身は当時山岳関係本を出版していた朋文堂(今は無い)の社長新島章男らが中心となって朋文堂涸沢ヒュッテ。長野県観光課等の推進による合作小屋だという。朋文堂は深田久弥の「日本百名山」を連載した「山と高原」を発行していた。
・今田重太郎:上高地から穂高へのルート「重太郎新道」完成。⇒5才の紀美子を遊ばせて道づくりをした前穂との分岐点は後に「紀美子平」と呼ばれる。⇒今田紀美子は昭和45年に23歳で夭死する。
・大町山岳博物館(山博:さんぱく)開館
・冬季富士山剣ヶ峰大沢奥壁主稜登攀(初登:12/28~1/1)
1952 昭和27年 ・日本山岳会がマナスル踏査隊(隊長:今西錦司)を派遣。マナスルはネパールの8163mの山でサンスクリット語のManasluで精霊の山の意味を持つ。
・薬師岳圏谷群:全国で唯一の国指定特別天然記念物に。
・白馬連山高山植物帯:特別天然記念物指定
1953 昭和28年 ・日本山岳会が第1次マナスル登山隊(隊長:三田幸夫)を派遣するも登頂失敗。
・英国隊のエドモンド・ヒラリー(34歳:ニージーランド出身)とシェルパのテンジン・ノルゲイ(チベット人)が5月29日人類初のエレベスト(8848m)初登頂。(ネパール名:サガルマータ・Sagarmatha「世界の最頂」の意味、チベット名:チョモランマ・Chomolangma「大地の母」の意味)
・早稲田大学隊:アンデス山脈にある南米最高峰の標高 6,962mのアコンカグアに1月26日日本人として初登頂。。
・小暮通太郎:山の憶ひ出〈上,下巻〉出版⇒この中に東京から見える山岳展望を記した「望岳都東京」がある。「・・東京から見える山を総括して申しますと、三千米以上の山が富士山を加えて九つあります。それから二千五百米以上三千米以下が十三。・・・・合わせて七十二座あります。・・」
・剣山荘、佐伯兵次により開業。
・くろがね小屋開業:運営主体は福島県観光開発公社。通年営業で温泉で有名な山小屋。
1954 昭和29年 ・日本山岳会が第2次マナスル登山隊(隊長:堀田彌一)を派遣するも現地住民の反発にあい登頂断念
・長野県警:山岳遭難遭難救助隊結成
・谷川岳一ノ倉沢烏帽子岩奥壁変形チムニールート5月、古川純一、山田孝が初登。
谷川岳「巌剛新道」の開削:水上営林署の竹花、川中の両氏によってマチガ沢から西黒尾根の「ラクダのコブ」の合流点までのコースが開かれる。
・富士吉田大沢で東大、慶大、日大隊雪崩遭難。15名死亡。(11月)
・七倉岳の船窪小屋を福島宗市が建設(翌年雪崩で死亡。娘の寿子が引き継ぐ。)
・佐藤久一郎、東京銀座に「株式会社 山晴社」(後にキャラバン:CARAVANと改称)を創業しキャラバンシューズを製造販売。
1955 昭和30年 ・1月2日:岩陵会の石原國利(リーダー中央大4年生)、澤田栄介(三重大4年生)、若山五朗(、三重大1年生)が前穂高岳東壁Aフェイスから頂上にアタック中、残り30m地点でトップの若山五朗が50センチほどスリップしたにもかかわらずナイロンザイルが切断し奥又白に墜落死(井上靖「氷壁」のモデル)。⇒7月31日若山の遺体はザイルを正しく結んだまま奥又のD沢で雪の中から発見された。
・4月29日:ザイルメーカーの東京製綱は、大阪大学工学部教授で日本山岳会関西支部長の篠田軍治氏の指導により、東京製綱蒲郡工場において、山岳関係者・報道関係者の集まった中で公開実験。しかし、参観者には知らせずに90度の岩角に1ミリ、45度の岩角には2ミリの丸みをつけて実験を行った結果、ナイロンザイルは麻ザイルに比べて数倍も強いという誤りの結果が得られ、そのように報道がなさる。(ザイルの安全基準は20年後の昭和50年に設けられ、真相を究明し続けた若松五郎の実兄石岡繁雄の主張が正しかったことが証明される。その間、通産省の調査で20名がザイルの切断事故で死亡している。)
・日本山岳会「山日記」31年版が、ナイロン・ザイル事件の東京製綱蒲郡工場実験によってナイロン・ザイルの岩角欠陥説を否定した篠田軍治の論文を掲載。
・5月末、白河高校山岳部が那須連峰須立山付近で遭難。16名のパーティーのうち6名が疲労凍死。
・9月、谷川岳、幽の沢中央壁を古川純一、小森康行初登攀
・ライチョウ(雷鳥):特別天然記念物に指定
・全日本山岳連盟結成(36都道府県)
坂倉登喜子:女性のための「エーデルワイスクラブ」設立
・北アルプス小池新道を小池義清氏が2年かけて開削(完成)
・剣山山頂ヒュッテ開業:徳島県にある西日本第2の標高をもつ剣山山頂直下に位置する山小屋。標高1920m地点にあるが、水洗トイレと風呂もある。
1956 昭和31年 ・日本山岳会の第三次マナスル登山隊がネパール・ヒマラヤのマナスル(8163m:世界第8位)に初登頂。登頂者は9日:【今西寿雄、41歳】、【シェルパ頭:ガルツェン・ノルブ】、11日:【加藤喜一郎、34歳】、【日下田実、25歳】の計4名。【隊長:槙有恒(62歳)隊員:小原勝郎(43歳)、辰沼広吉(39歳)、千谷壮之助(38歳)、衣田孝喜(38歳:毎日新聞社)、木村潤次郎(31歳)、大塚博美(31歳)、徳永篤司(28歳:医師)、松田雄一(25歳)】
・湯俣温泉から鷲羽岳南腹経由三俣山荘に伊藤正一による伊藤新道が開通
・東鎌尾根にヒュッテ大槍建設。
・上條親人(ちかと):岳沢ヒュッテ開業。
・五色小屋の経営権が立山観光協会に移る。32年に新たな小屋を建設。(石室が明治時代からあったが詳細は不明、昭和20年までは志鷹三太郎管理にあたっていいた。)
井上靖「氷壁」連載開始:朝日新聞に11月下旬から昭和32年8月末まで270回連載。
1957 昭和32年 川森左智子:マッターホルン、モンブラン登頂
・イヴォン・シュイナードがアメリカカルフォルニア州でPatagoniaパタゴニア)の前身シュナードイクイップメントを創業:。パタゴニアというブランド名はどの国の言語でも簡単に発音できることから付けられたという。
・浅間神社が明治維新で強制的に国有地化されていた富士山8合目より上の、返還訴訟を国に提訴。⇒昭和42(1967)年に最高裁で大社側勝訴。
・ワサビ平に双六小屋への荷継小屋建設(33年から営業小屋となる。)
・スゴ乗越小屋営業開始:五十嶋文一が小屋営業の許可を得て、営林署から小屋を譲り受けて小屋番を置く。
・3月:谷川岳一の倉沢滝沢を吉尾弘、原田輝一と積雪時初登攀。
・9月:山岳会「わらじの仲間」創立:野口冬人、関根幸次、日吉信美らを中心として集まった十数名によって創立。
・信州大学松本山岳部創部:文理学部山岳部と医学部山岳部が合併。リーダー矢野想之輔(医学部4年生)以下40名在籍。
1958 昭和33年 ・1月、北岳バットレス中央稜積雪期初登攀:(奥山彰、吉尾弘、小板橋徹のパーティーと芳野満彦、甘利利明のパーティーが同時にアタックし、話し合いにより1パーティーが登攀し初登頂に成功したとのこと。)
・山岳同人会を設立(第二次RCC):本部は東京に置かれ、設立の発起人は奥山章。RCCの創立者であった藤木九三が、奥山の懇願によって最高顧問に就任。
・3月 剣岳チンネ正面壁積雪期初登攀(芳野満彦、吉尾弘
・3月 一の倉沢烏帽子奥壁凹状ルート(松本龍雄、奥山彰)初登攀
・6月 一の倉沢烏帽子奥壁中央カンテ(小森康行、服部清次、鳥井義弘JCC)初登攀
・6月 一の倉沢コップ状岩壁正面壁(松本龍雄、雲表倶楽部)初登攀
・10月 一の倉沢滝沢第三スラブ(松本龍雄:東京都交通局に勤務、雲表倶楽部)初登攀
・12月 穂高岳屏風岩中央カンテ積雪期、(吉尾弘、芳野満彦)初登攀 
・早稲田大学隊キリマンジャロ(5895m)日本人初登頂:鈴木(現川井)耿子、後藤(現小倉)董子(のぶこ)に女性として初登頂
・群馬県警:谷川岳警備隊発足
・山井幸雄:金物問屋として、山井幸雄商店(現:スノーピーク:snow peak)を創業。⇒1963年「スノーピーク」を商標登録。⇒1996年株式会社スノーピークに社名変更。
・おいらく山岳会(OMC)創立:40歳以上の方が対象の山岳会
・中村義親:蝶ヶ岳ヒュッテ建設
・大天莊を穂高村が建設。
・五色ヶ原山荘を志鷹静郎が建設。
・8月13日白馬山荘台風の中、火災。第二新館を除く4棟消失。⇒白馬山荘は火災保険が切れた直後だったという。
・月刊誌「アルプ」創刊⇒1983年2月300号で終刊。
・高頭仁兵衛死去:享年81歳。⇒昭和25年5月、日本山岳会越後支部が弥彦山山頂に羽下修三作の半身浮彫寿像と山岳会長武田久吉撰文の由来書を付けた小塔を築く。昭和33年、山頂社務所の改築で、はるか高頭翁の故郷を見晴る太平公園に移築。移築した年から高頭祭が開催されている。有名な弥彦松明登山祭(昭和29年から始まる)はその後行なわれる。
1959 昭和34年 ・南博人(東京雲稜会):4月に登攀不可能と言われた、穂高の屏風岩東壁を、そして同年8月に最後の課題の谷川岳一の倉沢衝立岩正面岩壁を埋め込みボルトを使用し初登攀。⇒新田次郎】の小説『神々の岩壁』の実名モデル。
田山勝:10月前穂高東壁Dフェース初登攀。
・上高地明神池畔に嘉門次の記念レリーフが建つ。
・富山県山岳遭難対策協議会結成
・富山県警山岳救助隊結成
・警視庁青梅警察署山岳救助隊、五日市警察署山岳救助隊発足。
深田久弥:神田猿楽町にあった朋文堂の山の月刊誌「山と高原」(3月号)に「日本百名山」連載開始(1959年~1964年)。第1回目は鳥海山と男体山。そして毎月2山ずつ紹介され、最終回の50回目は38年4月号の筑波山と富士山。
1960 昭和35年 ・谷川岳一の倉沢衝立岩正面壁、前穂高のDフェース、積雪期初登攀
・富士山に北アルプス白馬岳で捕獲したライチョウを富士宮5合目付近に放鳥。⇒昭和46(1971)年に絶滅を確認。
・谷川岳宙吊り遺体収容事故:岩壁での遭難事故で宙吊りになった遺体に救助隊が近づけず、災害派遣された陸上自衛隊第1偵察中隊の狙撃部隊が一斉射撃(1300発)してザイルを切断、遺体を収容する。⇒この衝撃的な様子がテレビで放映された。
・国土地理院発足:1984年(昭和59年)7月1日、国家行政組織法の改正により建設省の特別の機関になる。本院は1979年(昭和54年)に東京都目黒から茨城県つくば市北郷1番の筑波研究学園都市内に移転。
・谷川岳ロープウェイ:12月に谷川岳天神平スキー場の営業を開始(三線自動循環式普通索道)
・全日本山岳連盟と日本山岳会が日本山岳協会(会長武田久吉)を組織し、財団法人日本体育協会に加盟。
・日本労働山岳会(現日本勤労者山岳連盟)結成
FJÄLLRÄVEN(フェールラーベン):スエーデンでオッケ・ノルデンにより創業。フェールラーベンとは北極キツネ、アウトドアパーソンという意味。
1961 昭和36年 ・日本山岳会:山岳研究所を上高地に開設
・10月20日:新潟県青梅町(現糸魚川市)で小野健氏らによって電気化学工業株式会社青海工場の職場山岳会「さわがに山岳会」を結成(翌年から10年かけて朝日岳から親知らずまで栂海(つがみ)新道を開く)。
・雲の平山荘伊藤正一氏により完成。
1962 昭和37年 ・12月31日(?)北海道学芸大学函館分校(現北海道教育大学函館校)山岳部大雪山旭岳で遭難:11人のパーティーが遭難し10人死亡、1名生還(北海道山岳史上最悪の事故)。⇒参考:「凍(しば)れるいのち」川嶋康男著は新田次郎の取材にも硬く口を閉ざしたていた生還したリーダー野呂幸司氏に対するインタービューを基に書かれたノンフィクション。
・国土計画:苗場山和田小屋開業
・那須ロープウエイ開業(東野交通)
・さわがに山岳会が北アルプス朝日岳から日本海親不知間に栂海新道開削を開始
・内蔵助山荘が佐伯利雄により開業。
MAMMUT(マムート)スイスでキャスパー・ターナーにより創業。創業当時は農業用ロープを製造。
1963 昭和38年 ・1月 愛知大学山岳部薬師岳遭難:サンパチ(38)豪雪の吹雪の中で1月2日薬師岳山頂まであと後300mのところで登頂を断念し、下山途中ルートを誤り、正規ルートから90度ずれている東尾根に入り込み13名全員が死亡。誰一人、地図もコンパスも持っていなかった。⇒1965年3月21日にNHKドキュメンタリードラマ「遭難」として、遺体が発見されない息子を探して独力で捜索を続けたひとりの父親の姿を、捜索隊や北アルプスの名ガイド、山小屋の人々を交えて再現した。
黒部ダム(黒四ダム)完全竣工:ダムの高さ(堤高)は186mで日本一。総貯水容量は約2億t。総工費は建設当時の費用で513億円。当時の関西電力資本金の5倍という金額である。作業員延べ人数は1,000万人を超え、工事期間中の転落やトラック・トロッコなどによる交通事故等による殉職者は171人。
・7月7日、日本勤労者山岳連盟(労山:JWAF)結成。
・豊田の二村善則:ピッケルの注文生産開始
・苗場山遊仙閣開業(国土計画が買収)⇒2009年度から営業廃止が決定。
・剱山の呼び名を「つるぎさん」に統一。
・トレッキングウエアーブランドmusshu(ムッシュ)が大阪で西村俊雄により創業。創業時のキャッチコピーは「手放すのが惜しくなる」でした。
1964 昭和39年 ・1月:秋田県立大館鳳鳴高校山岳部が岩木山で遭難4名死亡(二年生:石田隆司、畠山勉、乳井孝司、一年生金沢吉郎)生存者1名:TBSブリタニカ、田澤拓也著「空と山のあいだ 岩木山遭難・大館鳳鳴高生の5日間」)。)⇒2004年(平成16年)大館鳳鳴会により「大館鳳鳴高校山岳部遭難者慰霊碑」建立。⇒2008年に「岩木山遭難慰霊歌」もできる。⇒2001年2月23日NHKBS2でノンフュクションドラマ「遭難」(上川隆也主演)として放送された。
深田久弥:「日本百名山」新潮社版刊行⇒(「山と高原」の連載では有明山が入っていたが単行本化で日光白根山に差し替えられた。)
・富山県警山岳救助協力隊発足(民間)⇒翌年富山県警山岳警備協力隊に改称
10月:富士山測候所でレーダー観測開始
・黒部峡谷附猿飛ならびに奥鐘山:特別名勝・特別天然記念物
・「八ヶ岳中信高原国定公園」、「南アルプス国立公園」指定
・ICI石井スポーツ設立
・北海道勤労者山岳会が結成される。
・鏡平小屋、小池義清氏により開業
・大菩薩峠「介山荘」益田繁により開業。
・三峰ロープウェイ開業(秩父鉄道)⇒2006年5月から運転休止。
1965 昭和40年 ・芳野満彦と渡部恒明:4月マッターホルン北壁を日本人で初登攀(新田次郎の「栄光の岩壁」のモデル)。
・高田光政と渡部恒明:8月アイガー北壁に登攀し、渡部が途中で墜落死するも高田は登頂に成功。新田次郎の「アイガー北壁」のモデル。
・富士山頂に気象レーダー完成:使用波長は2880MHz帯(10センチ波)で出力は1,500kw、5m径回転式パラボラアンテナ(3~5回転/分)の気象レーダーで最大800km先まで観測が可能(新田次郎の「富士山頂」は著者の気象庁の役人としての自伝的一冊)⇒工事の様子などはNHKの「プロジェクトX-挑戦者たち-巨大台風から日本を守れ -富士山頂・男たちは命をかけた-(2000年3月28日放送)」で知られる。しかし、官製談合のモデルケースとしてとりあげられている。
・国際山岳ガイド連盟設立:スイスのツェルマットにおいてイタリア、スイス、フランスとオーストリアの山岳ガイド協会代表者の会議が開かれ設立。
・富山県警:山岳警備隊結成(3月5日・34年に結成された山岳救助隊を発展解消。初代隊長佐野武夫警部以下25名で正式結成)
・梶田製作所(現カジタックス)創業:梶田民雄が登山用品店の製造部門でアイゼンを製造していたが店の閉店に伴い事業を継続したのが始まり。1994年にカジタックスに社名変更。しかし、2010年高齢と後継者不在のため廃業。2011年モンベルが事業承継。
・野口五郎小屋を上條一家(鉄一、雅弘、文吾、盛親)により開業
1966 昭和41年 ・伊藤敏夫:グランド・ジョラス・オォーカー稜を日本人初登攀。
・植村直己:モン・ブランに続いてキリマンジャロに単独で登頂。
・スキーヤー三浦雄一郎:富士山直滑降。
・日本山岳会:上高地山岳総合研究所「上高地山荘」開設
・群馬県は「谷川岳遭難防止条例」を制定一ノ倉岳から南面の山域を登山危険地区と位置づけ、3月1日から11月30日までの間に、入山する登山者に対し、登山届け、又は登山計画書の提出を義務づける。、「冬山の期間」(12月1日~2月末までの間)は危険ですので、危険地区内の登山はしないように努めて下さい(努力規定)。
・富山県は「富山県登山届出条例」を制定:剱岳周辺を「危険地区」とした上で、12月1日から翌年5月15日までの間に危険地区に立ち入る者に対し「登山届」の提出を義務づけている
屋久島の縄文杉を発見:屋久町役場(当時)の観光課長だった岩川貞次氏により発見され広く紹介される。発見当初は大岩杉と呼ばれていた。
・平ヶ岳:鷹巣登山道開拓
1967 昭和42年 ・2月:山岳同志会の遠藤二郎、星野隆男が、日本人として初めてマッターホルン北壁の冬季登攀に成功(冬季第3登)。
・5月:社団法人日本山岳教会設立総会:46都道府県山岳連盟(協会)が直接加盟する組織となり、社団法人日本山岳会(JAC)は東京都山岳連盟の加盟団体となる。
・日本山岳会東海支部アンデス学術遠征隊アコンカグア(6959m)南壁登頂。
・7月:今井道子若山美子がマッターホルン北壁を女性初登攀
・森田勝、岩沢英太郎:2月25日から27日谷川岳一ノ倉沢滝沢第三スラブ初登攀。(いわゆる「三スラ神話」の誕生)
・7月:我が国の登山の健全な発展を図るため国立登山研修所開所:富山県中新川郡立山町芦峅寺ブナ坂(千寿ヶ原)。文部省設置法施行規制の一部改正により、文部省体育局(現在の文部科学省スポーツ・青少年局)の内部部局として設置。⇒平成21年4月独立行政法人日本スポーツ振興センターに移管
・7月:(木曾)駒ヶ岳ロープウェイ開通:千畳敷駅の標高は2611.5m。索道を含めた鉄道の駅では日本最高の位置。高低差950m。
・8月:松本深志高校、西穂高・独標付近で落雷にあい11名死亡、13名が重軽傷を負う。
・日本ピラタス横岳ロープウェイ開業(現:ピラタス横岳ロープウェイ、山麓駅:標高1771m、山頂駅:標高2237m)
・層雲峡ロープウェイ開業
・社団法人日本山岳協会設立総会。(法人設立認可は昭和43年5月。なお、JACは東京都山岳連盟の加盟団体となった。)
1968 昭和43年 ・植村直己がアコンガグアに単独で登頂し、下山時に登頂した隣の処女峰(5,700 m)が、後日「明治峰」と命名される。続いてアマゾン川を6000km筏で下る。
・5月:社団法人日本山岳教会設立認可。
・国立登山研修所夏山前進基地(剱沢)竣工。
・信濃四ツ谷駅が白馬駅に改称。
THE NORTH FACE (ザ・ノース・フェイス)カリフォルニア州バークレーにて創業(1969年、ダウンパーカの原形ともいえるシェラ・パーカを発売):モットーは「機能がデザインを決定付ける」
1969 昭和44年 ・加藤滝男・今井通子・加藤保男・根岸知・天野博文・久保進、原勇がアイガー北壁に直登ルート(ジャパンダイレクトルート ( Japaner Diretissima ) )を開拓(夏期世界初直登)
・日本山岳会第一次エベレスト南壁偵察隊(藤田佳宏隊長)クーンブ氷河偵察。(4月~5月)
・日本山岳会第二次エベレスト南壁偵察隊(宮下秀樹隊長)南西壁8000mラインに到達。(9月~10月)
・剱岳周辺における大量遭難(15パーティー81名遭難。19名死亡)
・辰野勇:アイガー北壁日本人第二登を果たす(モンベルの創業者)
・国立登山研修所冬山前進基地(千石)竣工。
・長野県山岳総合センター開設。大町市に山岳における遭難事故の防止と健全な登山活動の進展をはかり、併せて自然保護思想を普及する目的を持って開設される。
・11月5日大菩薩峠事件:共産主義者同盟赤軍派(赤軍派:53名)が大菩薩峠山中で革命蜂起のための大規模な軍事訓練を行なうべく、潜伏していた山小屋『福ちゃん荘』(標高1720m)に警視庁と山梨県警合同の警察部隊が突入。凶器準備集合罪で逮捕。武器なども押収される。⇒これにより弱体化した赤軍派は連合赤軍を形成し1972年2月19日の軽井沢河合楽器の保養所「あさま山荘」事件へ突き進むことになる。
・後方羊蹄山(しりべしやま・蝦夷富士)が難読であったことから地元の倶知安町が羊蹄山への変更を求め、国土地理院の昭和44年11月発行の地形図から「羊蹄山」と書き換えられる。
MSR(Mountain Safety Research):アメリカシアトルで Larry. Penberthy(ラリー・ペンバーシ)により創業
・空木駒峰(うつぎこまほう)ヒュッテ完成(着工から7年で完成。駒峰山岳会の会員が管理・運営)
1970 昭和45年 ・5月5月11日:日本山岳会エベレスト登山隊(隊長:松方三郎、登攀隊長:大塚博美)の松浦輝夫と植村直己、ついで12日平林克敏とシェルパのチョレーターが登頂に成功。同隊の小西正継等が南壁初登攀に挑戦するも8500m地点で断念。
・日本山岳会東海支部(原真等)マカルー峰(8463m)東南稜より登頂(5月23日)。
・森田勝・岡部勝・羽鳥祐治・小宮山哲夫:アイガー北壁冬季日本人初登頂
・三浦雄一郎:エベレスト、サウス・コル直下の7780m地点から約3kmのスキー滑降に成功
・植村直己:8月マッキンリーに単独で登頂
・岐阜県警:山岳警備隊結成
・警視庁山岳救助レンジャー部隊設置(部隊は主に篭城事件において高所からの突入しての犯人制圧やヘリコプターからの降下しての活動、山岳救助などを任務とする。 ):警視庁第七機動隊に置かれている山岳救助を任務とする部隊。
・新穂高ロープウェイ開設
・「神戸登山研修所」を建設:兵庫県山岳連盟が登山についての知識と基礎的な技術習得のため、登山研修所を建設し建物を神戸市に寄贈。灘区王子町2丁目2-1(王子公園内)
1971 昭和46年 ・高橋和之、今井道子、丹下、両角、若井でグランドジョラス(4208m)北壁登頂。高橋と今井は山頂で結婚。今井道子は女性初のアルプス三大北壁完登。⇒マッターホルン(1967年7月19日)・アイガー(1969年8月15日)。
・立山黒部アルペンルート立山駅から扇沢駅まで全線開通。
・社団法人日本アルパインガイド協会設立
・環境庁(現:環境省):発足
・大石環境庁長官間尾瀬を視察。工事中止が閣議で了承。尾瀬道計画についての公園計画廃止。
・深田久弥氏死去:登山中の茅ヶ岳(1,704m)山頂下にて脳卒中で急逝。(3月21日没68歳:墓・石川県加賀市大聖寺町・本光寺 慧岳院釈普宏)
・栂海(つがみ)新道開通:新潟県の「さわがに山岳会」が1962年から開削をはじめ北アルプス朝日岳から日本海親不知間が開通。
・米国カリフォルニア州サンタクルーズに「Marmot:マーモット」創業
・剣岳早月尾根に佐伯伝蔵により「伝蔵小屋」開設。現在の「早月小屋」。
・アライテント、新井睦氏により創業(*明確な創業年はありませんでしたが2011年の同社のHPにある創業40年から逆算しました。):ブランド名の「RIPEN」とは「熟練」を意味する。「ヒマラヤからウラヤマまで全ての人にアライテント」というコピーはかっこいい。
1972 昭和47年 ・植村直己:グリーンランドで往復3000km犬ぞり単独旅行
・武田久吉死去:享年86歳
・徳仁親王(なるひとしんのう)殿下:燕岳登山(8月18日)
THERM A REST(サーマレスト)米国で創業:ボーイング社の航空エンジニアであったジム・リーとジョン・バローズによって始められたCASCADE DESIGNS(カスケードデザイン社:1971創業:ウオーターパックのプラティパス-PLATYPUSも同社のブランド)のブランド。世界初のバルブを開くと自動的に膨らむマットレスは、快適性・保温性・軽量性・収納性にすぐれたエアマットレスの代名詞的存在。
1973 昭和48年 若山(岡本)美子、夫・昭二氏と新婚旅行のマッターホルン・フルッケン山稜で墜落死(新田次郎の「銀嶺の人」のモデルで今井道子さんのパートナー)
・エベレスト日本登頂者:石黒久、加藤保男(第2次RCC秋季世界初登頂)
・加藤滝男:スイス人以外では初めて、「スイス・アルプスガイド」の国家試験に合格
・消費生活用製品安全法が制定され、登山用ロープ(ザイル)が同法の対象となる。
・フェルナンド・ペツル(PETZL)が彼の最初の登山用ヘッドライトを開発する。
・登山靴の専門店「ゴロー」が森本五郎により創業。
1974 昭和49年 ・植村直己:北国圏のグリーンランドからカナダからアラスカ1万2000キロを単独犬ぞり走破
中世古直子、内田昌子、森美枝子同人ユングフラウ日本女性マナスル登山隊(隊長:石黒恒)でシェルパのジャンブーとともに、マナスル(8163m)に登頂。女性としては世界初の8000m峰登頂成功。
・北海道警察山岳遭難救助隊創設(北海道警察本部訓令22号昭和48年12月1日山岳遭難救助隊規程)(24年のトムラウシ縦走のさい2日間一緒になり精悍でたくましい隊員たちから小化雲岳下でヒアリングして調査しアップしました。お世話になりました。それにしても早い!)
・徳仁親王殿下:瑞牆山登山(4月4日~5日)
・徳川家康から寄進された富士山八合目以上の土地の所有権について国との間で裁判となったが、最高裁判決により富士山本宮浅間大社にあることが確定。(最判昭和49年4月9日判決)
・マーモット(MARMOT)アメリカで創業。(ゴアテックスを採用したシュラフを世界で初めて開発)「For Life」が社訓。
1975 昭和50年 田部井淳子(女子登攀クラブ)エベレスト女性初の登頂に成功:(同行シェルパ:アン・ツェリン)隊長:久野(宮崎)栄子、副隊長:田部井淳子、渡辺百合子、真仁田道子、平島照代、穂谷由美、奈良文枝、塩浦玲子、三浦洋子、永沼雅子、藤原すみ子、中幸子、北村節子、荒山文子、阪口昌子(医師)
・松本市立アルプス山岳館開館
・通産省は消費生活用製品安全法に基づき世界初の登山ロープの安全基準を設け性能表示義務付:旧・通産省は前穂高ナイロン・ザイル事件(若山五朗が滑落死)の原因究明に尽力した石岡繁雄(若山五朗の実兄)を登山用ロープ(ザイル)安全調査委員とし、登山用ロープの安全基準を世界で初めて設けた。⇒これにより8mmザイルはダブル(二重)にして使用しても登山用としては認められないものとなった(当時の通産省の調べでは同法ができるまでに判明しているだけで約20名がザイルの切断で死亡しているとのこと。以後、ザイル切断事故による死者は発生していない。このザイル切断事故に関してナイロンザイルは麻より強いとした報告書を出した企業(東洋製綱並びに東洋レーヨン)と、我が国の登山を指導すべき日本山岳会の責任は逃れられない我が国登山史上の恥部である。)
・辰野勇:株式会社モンベル(mont-bell)を大阪に設立(辰野勇:1969年には、アイガー北壁日本人第二登を果たすなど、名実ともに日本のトップクライマー)
・「夏山JOY」が別冊「山と渓谷」として創刊。創刊号のキャッチコピーは「3000mの夏休み」。1994年「夏山JOY」が「ヤマケイJOY」へとリニューアル年4冊刊行へ。
・徳仁親王殿下:金峰山登山(7月24日~25日)
1976 昭和51年 ・植村直己、グリーンランド~カナダ~アラスカの犬ぞり一人旅に成功。
・山学同志会隊、ジャヌー北壁初登攀。
・野沢温泉村立スキー資料館(現:日本スキー博物館)が開館
・ゴアテックス素材(Gore-Tex・WLゴア&アソシエイツ社が製造販売する防水透湿性素材の商標名):アメリカの アウトドア用品のカタログ通販メーカーEarly Winters 社のテントに初めて採用さる。それ以降、主にアウトドア用品、特にレインウェアなどを中心に多く採用される。
・新田次郎、昭和51年9月初旬に10日間、64歳にして立山に数人で取材で入り剣岳に登頂。
1977 昭和52年 ・長谷川恒男:マッターホルン北壁ノーマル・ルート冬季単独初登頂
・日本山岳協会登山隊重広恒夫、中村省爾隊員がK2(8611m)日本人初登頂(世界第2登頂)
・イエティー同人、ダウラギリI峰(8167m)サウスピラーを初登攀した時に結成。
・日本山岳会「山日記」(52年版)にナイロン・ザイル事件に関する篠田軍治の論文掲載の謝罪文が掲載。⇒【昭和31年「山日記」では登山用ロープについて編集上不行届きがあった。それによって迷惑を受けた方々に対して深く遺憾の意を表する。「山日記」編集委員会】
・上高地帝国ホテル新築開業
・新田次郎『劒岳・点の記』( 文藝春秋)
GREGORY(グレゴリー):カリフォルニアのサンディエゴでウエイン・グレゴリーが山小屋風の小さな店からスタート。
・東京都でmountain dax(マウンテンダックス)が半谷貞夫により創業。
1978 昭和53年 ・長谷川恒男:アイガー北壁ノーマル・ルート冬季単独初登頂
・植村直己:カナダ・コロンビア岬から北極点を経由してグリーンランドを横断する北極点単独犬ぞり旅行に成功
・鴫満則、秋子夫婦で冬のマッターホルン北壁登攀(女性としては冬季初登攀)
・南嶺会が甲斐駒ケ岳の赤石沢奥壁を登攀。
メスナー:エベレストでハーベラーとのコンビで人類初の無酸素登頂に成功。
・北岳山荘を山梨県が建設
・奥秩父 十文字小屋開業。
・槍ヶ岳山荘の食堂屋根に北鎌尾根の遭難救助に来た航空自衛隊のヘリ、バートル107型機が墜落。
1979 昭和54年 ・長谷川恒男:グランド・ジョラス北壁オォーカー稜を冬季単独初登頂。世界で初めて、アルプス三大北壁冬季単独登頂の偉業を達成。⇒記録映画『北壁に舞う』(1979年)松山善三:監督・
・中国が外国登山隊の受入をを開始(ヒマラヤに北面からの登頂が可能となる)。
・山と渓谷1979年新年号で小林泰彦氏の「低山徘徊」、「低山礼賛」など低山シリーズの連載開始。後「百低山探訪」、「百低山巡礼」等と名前を変えて29年間(345回)にも及ぶ長期連載。⇒低山の基準は深田百名山の1500m以上に対して1500m以下ということらしい。
1980 55年 ・日本山岳会が(隊長:斎藤生)東北稜と北壁の2ルートからチョモランマ(エベレスト)に登頂(加藤保男チベット側から登頂)
・森田勝が村上文祐とグランド・ジョラスで転落して死亡。
・8月14日:富士山の吉田口須走で岩屑なだれで大事故:久須志岳直下の岩が崩落、吉田大沢で死者12 名、負傷者 31名。事故後に下山道のルート変更。
・ラインホルト・メスナー:エベレスト単独無酸素登頂に成功。
・戸田直樹等谷川岳一ノ倉沢コップ状岩壁フリー化。
・山学同志会隊カンチェンジュンガ無酸素登頂。
・エベレスト日本人登頂者:加藤保男(北稜中国側から外国人初。下山途中標高8600m超でビヴァークするも生還する。)、重広恒夫、尾崎隆史(JAC北壁世界初)
・南アルプススーパー林道完成
・徳仁親王殿下:雲取山、飛竜山登山(7月21日~22日)
1981 昭和56年 ・長谷川恒男:アンデス・アコンカグア北壁を冬季単独初登頂
・加藤保男:尾崎隆、富田雅昭の三人による遠征隊でマナスルに無酸素登頂。
・女子隊(隊長:田部井淳子)がシャシャパンマ(ゴサインタン)に登頂
田中澄江:随筆「花の百名山」を発表。読売文学賞を受賞
・三浦豪太:アフリカキリマンジャロ(5895m)を最年少(11歳)で登頂。
・日本登山医学研究会(現:日本登山医学会)が発足:1981年7月5日、会長北博正先生で慈恵会医科大学高木講堂に約50人が集まる。⇒多くの北アルプスの夏山診療所の運営に日本登山医学会の会員が参加しているそうです。ありがたいことですね。
・シリオ(SIRIO) 創業:もともとイタリア「アゾロ」の代理店業務を行う。1993年
・Jack Wolfskin
(ジャックウルフスキン) :ドイツ・フランクフルトで誕生。
・林野庁は年1月、林野長官の通達によって全国の国有林内にある山小屋の地代を従来の「定額方式」から「売上方式」に改め、1987年から実施通告。山小屋に対して毎年の営業報告書の提出を義務づけ、総売上(経費を控除しない額)と設備投資費を報告させ、総売上の1%~3%を地代として徴収する方式。
1982 昭和57年 ・日本山岳協会隊が(登攀隊長:小西正継)が北面からチョゴリ(K2)に初登頂
長谷川恒男:アンデス・アコンカグア南壁を冬季単独初登頂。
加藤保男:厳冬期エベレストに登頂を果たす(東南稜)も、登頂を断念し下山していた小林利明隊員と共にビバーク。消息を絶つ。
・谷川岳・奥沢奥壁大氷柱を 1月 勝野惇司・菊地敏之 (初登)
長尾(現:山野井)妙子と笠松美和子:グランド・ジョラス・ウォーカー側稜を女性初の冬季登攀。(笠松美和子は1993年2月:中ア・宝剣岳にて遭難死。
立川女子高山岳部隊:カナディアン・ロッキーのツインズ北峰(3683m)に登頂(立川女子高山岳部第四次海外遠征)。
・モンベルのクライミングスピリッツを実現する「ZERO POINT ゼロポイント」ブランドをスタート。
1983 昭和58年 ・国土地理院二万五千分の一地形図全国整備完了
・瑞牆山の富士見平小屋OL殺人事件:管理人による22歳の女性登山者殺人事件:翌年判決、懲役13年。登山史上誠に残念な事件。
・エベレスト日本人登頂者:川村晴一、鈴木昇己、遠藤晴行、吉野寛、禿(かむろ)博信(日本人無酸素初登頂、吉野と禿は帰路急性高山病により遭難死)。尾崎隆、山田昇、村上和也
・月刊誌「アルプ」300号で終刊。
1984 昭和59年 植村直己:マッキンリーの冬季単独初登頂に成功した旨の無線交信をした後、行方不明。
1985 昭和60年 ・イワタニ・プリムス株式会社設立
・エベレスト日本人登頂者:植村直己物語撮影隊(八木原國明、阿久津悦夫、木本哲、名塚秀二、三枝照雄、佐藤光由)
1986 昭和61年 ・松本駅前に播隆上人像建立(松本ライオンズクラブ:彫刻家・上條俊介製作)
・ラインホルト・メスナー(イタリア人):人類史上初の8000m峰全14座完全無酸素登頂を成し遂げた。
・12月19日:女性登山の先駆者村井米子さん死去
・徳仁親王殿下:八ヶ岳、利尻岳、平ヶ岳登頂 ⇒この殿下の10月14日の平ヶ岳登頂に際して中ノ岐林道から山頂へのショートカットルート(平ヶ岳裏ルート)が開かれる。20人ほどの地権者がいて一般解放はされておらず、地元の山小屋に宿泊するとマイクロバスで林道終点まで運んでもらい、平ヶ岳山頂まで約3時間程で登れて日帰りができる「皇太子ルート」と呼ばれている。税金を使って林道を開き、皇太子の登山が決まってから突貫工事で登山道を開きながら地元地権者にしか使わせないというまことに悪名高い登山ルート。⇒地図には中ノ岐からの登山は禁止と書かれている。
1987 昭和62年 ・徳仁親王殿下:南アルプス(白根三山)登頂
1988 昭和63年 ・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:5月5日山田昇、山本宗彦、中村進、中村省爾、三枝照雄
・日本テレビチョモランマ登山調査隊:5月5日世界初山頂衛星生中継(同社の開局35周年記念特別番組)。
・山野井泰史トール西壁を単独登攀。
・五十嵐貞一(福島県石川郡古殿町):103歳で登頂成功。最高齢登頂記録を更新。ギネスブックに記録。
・徳仁親王殿下:開聞岳登頂(7月20日)、富士山、唐松岳、五竜岳登頂
1989 平成元年
昭和64年は1月7日まで
・5月2日:槙有恒氏死去(享年95歳)⇒1894年(明治27年)2月5日 宮城県仙台市生まれ(本籍は東京)、慶応大学。松方三郎、松本重治等の上流階級の子弟からなる秩父宮(雍仁親王)サロンのリーダー。1921年(大正10年)、アイガー東山稜を初登攀。日本山岳会会長、日本山岳協会会長を歴任し、マナスル第3次登頂隊長としてマナスル初登頂に成功など我が国近代登山の先駆者。
・日本山岳会はナイロンザイル事件の公開実験を指導した篠田軍治氏を多くの批判の中、名誉会員に推挙する。(ナイロンザイル事件で日本の登山者に誤った事件結果を公表し多くの死亡を出す原因となった氏とそれを擁護した山岳会の責任は重いものがある。昭和52年に山岳会は謝罪文を掲載したにもかかわらず何故でしょう。日本山岳会栄光の百年における唯一の汚点との指摘もある。)
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:三谷統一郎、大西宏、山本篤
・女優の和泉雅子:北極点到達。
・3月、林野庁から三俣山荘、雲ノ平山荘、水晶小屋(以上富山県側)及び湯俣山荘(長野県側)に対する「使用不許可」と「撤去命令」の通告。これを受けてこれらの三俣山荘の伊藤正一氏は富山、大町両営林署(後に森林管理所と改名)を相手取って富山、長野両地裁に提訴(後に富山地裁に一括併合)。⇒これかこれから約15年に及ぶ長い裁判になる。結果は伊藤氏敗訴。三俣山荘のHPに詳細。
・アメリカ・ユタ州ソルトレークシティーで「Black Diamond(ブラックダイアモンド)」創業:ブランドは1957年創業のPatagonia(パタゴニア)の前身シュナードイクイップメントのクライミングとバックカントリー部門を引き継いで創業した。
1990 平成2年 ・野口健(16歳):モンブラン(ヨーロッパ大陸)登頂、(17歳)キリマンジャロ(アフリカ大陸)登頂
・6本爪アイゼンは埼玉県川口市のエキスパート・オブ・ジャパンが製作したのが世界最初の製品。
・徳仁親王殿下:甲斐駒ヶ岳、仙丈ケ岳登頂
・10月26日:西穂高山荘失火で全焼
1991 平成3年 ・小西浩文:ブロード・ピーク(8,051m)に無酸素登頂(パートナーは山野井泰史、長尾妙子ら)。
・長谷川恒男(享年43歳): 10月10日ウルタルⅡ峰で雪崩に巻き込まれ星野清隆と共に遭難。
・中国・梅里雪山で京都大学学士山岳会(AACK)の日中合同登山隊17人が遭難
・南極大陸最高峰ビンソンマシフ峰(4,897m)に、田部井隊(隊長 田部井淳子)登頂。
・文部省(現:文部科学省)楽しい登山-中高年の安全な登山-(ぎょうせい)を出版(140ページほどのコンパクトな冊子である。しかし、現在では少し古い内容も・・?)
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:ニ上純一
・夢枕獏:第11回平成10年度柴田錬三郎賞を『神々の山嶺』で受賞。
1992 平成4年
田部井淳子:女性で世界初の七大陸最高峰登頂者となる。
・野口健(19歳):コジアスコ(オーストラリア)登頂、アコンガグア(南米大陸)登頂
・横岳ピラタスロープウエイ事故発生:山麓駅に到着した「ピラタス1号」と、山頂駅に到着した「ピラタス2号」の両搬器が、ともに減速・停止せずに終点のコンクリート壁に衝突。乗員乗客合わせて72人が将棋倒しとなり、乗客70人が重軽傷(国内ロープウエイ最大の事故)
・尾瀬の山小屋が予約制を開始。
・皇太子徳仁親王殿下:常念岳登頂⇒・徳仁(なるひと)親王殿下は1989年昭和天皇の崩御による父・明仁親王の即位に伴い皇太子となり、平成3年2月23日「立太子の礼」を執り行い、国会・政府の用いる正式表記では皇太子を冠し「皇太子徳仁親王」とされる。
1993 平成5年 ・野口健(19歳):マッキンリー(北米大陸)登頂、
・小西浩文:ガッシャーブルムII峰(8,035m)に無酸素登頂(パートナーは山野井泰史、長尾妙子、戸高雅史)。
・日本山岳会東海支部隊、中国カラコルムのクラウン峰(7295m)初登頂
・国土地理院:数値地図の刊行
・環境基本法制定:環境に関する分野について、国の政策の基本的な方向を示す法律。平成5年11月19日に公布・施行。公害対策基本法を改正したもので、基本理念を定め,国,地方公共団体,事業者及び国民の責務を明らかにするとともに、環境保全型社会の形成、世代地域を超えた地球環境保全が新たな基本理念に加えられた。
・白神山地・屋久島が世界自然遺産登録
・田中正人:日本山岳耐久レース・長谷川恒男カップ(奥多摩全山71.5km) 優勝(初代チャンピオン)。
・今田重太郎、8月31日死去:享年94歳
・シルヴェスター・スタローン主演のアメリカ・フランス合作映画『クリフハンガー』 (Cliffhanger) レニー・ハーリン監督、公開。ロッキー山脈に不時着した武装強盗団と山岳救助隊員の戦いを描いたアクション・サスペンス映画。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:群馬山岳連盟冬季南西壁世界初登頂(名塚秀二、後藤文明、田辺治、江塚進介、尾形好雄、星野龍史)
SIRIO(シリオ)はイタリアのブランド「アゾロ」の代理店販売を行なっていたアゾロスポーツ・販売㈱がオリジナルブランドを立ち上げた。日本人の足型を研究し、足の長さと幅の比率10対4のソールを基準として日本人の足型に合った3つのワイズを企画、開発。これらをもとにイタリアで設計、生産を行う。SIRIOは大犬座のα星シリウス(SIRIUS)のイタリア語表記(ギリシャ語で「光り輝くもの」、「焼き焦がすもの」の意味がある。)
・米国カルフォルニア州でMOUNTAIN HARDWEAR(マウンテンハードウェアー)創業。コンセプトは8000m峰の様な厳しい環境下で使用できるような高品質で耐久性のあるエクスペディション仕様の製品を作ること。
ワイルドローズ(Wild Roses)が、イタリアで女性向けアウトドアウェアのブランドとして誕生。
・警視庁青梅警察署山岳救助支援隊(ブルーエンジェルス)編成:女性警察官で構成される支援チーム
1994 平成6年 ・野口健(21歳):ヴィンソン・マシフ(南極大陸)
・山野井泰史:ヒマラヤ、チョー・オユー(8201メートル)の難ルートを無酸素単独で初登攀に成功
杉本智彦:可視マップ作成ソフト「カシミール」を発表(現在のKASHMIR 3D:カシミール3D
・埼玉県のJG1MOU浜田博氏により作成されたアマチュア無線通信管理ソフト「Turbo HAMLOG」が第3回フリーソフトウェア大賞「特別賞」受賞。無線は山での必需品アマチュア無線家(ハム)ならご存知でしょう。(管理者の町内の埼玉県県民活動センターでJG1MOU浜田氏本人からソフトの使い方を家族で講習を受けたのが懐かしく思い出されます。研修の写真が「CQ ham radio」に掲載されました。DOSで動く時代でした。浜田氏は久喜市にお住まいで大きな50Mhzのアンテナが建っていたと記憶しています。)
・「マークスの山」の映画公開:同名の高村薫の第109回直木賞を受賞作品を中井貴一・萩原聖人主演で映画化。北岳山頂での捜索シーンなど多くの登山関係者がエキストラとして参加したという。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:愛知学院大学(鈴木晴彦、熱田渉、石川富康)、貫田宗男
1995 平成7年 ・小西浩文:チョ・オユー(8,201m)に無酸素登頂。
立川女子高校山岳部の第7次海外遠征。中国パミール山脈の未踏峰、コングールIV峰(6650m)に隊員17名が初登頂
・皇太子徳仁親王殿下、雅子妃殿下:雲取山登頂
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:日本大学(井本重喜、芳野淳)。
・北海道大学山岳館創設:札幌市北区北18条西13丁目,恵迪寮東側
・尾瀬保護財団設立。
1996 平成8年 ・山崎彰人と松岡清司ウルタール・サール初登頂。
・国土地理院GPS測量開始:測量法施行規則の改正により電子基準点が測量標として追加。
・野口健(22歳):エルブルス(ヨーロッパ大陸、ロシア)
・植村直己冒険賞を豊岡市が主催:第1回受賞者は尾崎隆氏「幻の山ミャンマー最高峰カカボラジ(5881m)初登頂」。
・NHK趣味百科/中高年のための登山学(講師:岩崎元郎)7月から9月教育テレビで13回放映(文部省登山研修所/協力)歌手のみなみらんぼうさんや俳優の山内賢さんが一般の登山者と登っていました。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:難波康子(47歳、帰路サウスコルにおいてブリザードに巻き込まれあと200mの第4キャンプに帰れず遭難死。日本人女性で二人目のエベレスト登頂者)、福岡チョモランマ隊(花田博志、重川英介、菊池守、杉山洋隆)、立正大学(竹内洋岳、山崎幸二)
・小西政継:マナスルで遭難死(10月1日)
1997 平成9年 ・野口健(25歳):エベレスト(アジア大陸)ネパール側 - 七大陸最高峰登頂の世界最年少記録樹立(当時)
・平山ユージ: アメリカ合衆国ヨセミテ渓谷の岩壁(1,100m、サラテルート)を2日間で完登する前人未到の偉業を達成
・小西浩文:ダウラギリI峰(8,167m)、ガッシャーブルムI峰(8,068m)に無酸素登頂。 (8000m峰14座中6座を無酸素登頂)
・1991年の梅里雪山遭難の遺体が発見されるとの報道(2004年までに17名のうち16名の遺体を回収)
・9月15日:安達太良山沼ノ平火口付近で登山者4名が硫化水素ガスにより死亡。
・安房トンネル開通。
・植村直己冒険賞:第2回受賞者は米子昭男氏。冒険名:「左腕を失うハンディを乗り越えヨットで大西洋・太平洋単独横断」
1998 平成10年 ・秩父宮山岳賞創設:社団法人日本山岳会が故秩父宮家より遺贈金を拝受し、「山」に関しご造詣の深かった故秩父宮殿下及び同妃殿下の事跡を永く記念するため秩父宮山岳賞創設。
・平山ユージ:フリークライミング日本人初のワールドカップ総合優勝
・新穂高ロープウェイ2階建ゴンドラ導入。
・富士山クラブ結成(任意市民団体)富士山清掃活動・環境教育プログラム開始:翌年特定非営利活動法人として内閣府より認定。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:昭和山岳会(中島俊弥、阿部訴ニ、上村博道、小野寺斉)、日本勤労者山岳連盟(倉橋秀都、佐藤賢、永田幸一、坂本正治、橋本久、矢野利明、川原慶紀、遠藤和美)、日本テレビ撮影隊(村口徳行、澤田実)、続素美代(熊本県玉東町出身:2008年1月日本人女性では初の南極点到達)
・植村直己冒険賞:第3回受賞者は関野吉晴氏。冒険名:「人類の旅5万キロをたどるグレートジャーニーの冒険」
1999 平成11年 ・米国のマロニー/アーヴィン調査遠征隊(隊長:エリック・サイモンスン):5月1日に頂上付近の標高8130m地点の北壁でうつぶせになった古い遺体を発見。1924年に遭難したジョージ・マロリーの遺体を75年ぶりに発(遺体の保存状態は極めて良好で、うつぶせで両手を広げた格好。服に縫い込まれていた名前と、妻など家族からの手紙が胸のポケットに納まっていたことからマロリー本人と確認。)。⇒詳細は「そして謎は残った伝説の登山家マロリー発見記)
・北海道の後方羊蹄山で、一般の募集登山ツアーに参加した熟年登山者3名が遭難。女性登山者2名が死亡
・11月1日、富士山測候所のレーダー観測終了
・北海道登山者雪崩研究会が結成。
・会津桧枝岐村に武田久吉メモリアルホール開館。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:野口健(25歳、亜細亜大学生、7大陸最高峰完登)、小塚和彦
・植村直己冒険賞:第4回受賞者は大場満郎氏。冒険名: 「史上初の北極海単独横断と南極大陸約4,000km単独横断」
2000 平成12年 ・平山ユージ:フリークライミングワールドカップ2度目の総合優勝
熱田渉(33歳銀行員):7大陸最高峰完登(7サミッター)最終登頂山:南アメリカ:アコンカグア。
・3月3日大日岳遭難:文部科学省登山研修所のリーダー冬山研修で大日岳頂上付近(標高約2501メートル)に到着した27名が頂上付近で休憩していたところ、巨大な雪庇が足元から崩落し、講師2名及び研修生9名の計11名が転落した。転落した11名のうち9名は無事であったが、以下の2名の研修生が、雪庇の崩落によって発生した雪崩に巻き込まれ行方不明となり、後に遺体で発見された。⇒裁判となり2007年に和解成立
・山岳アクション映画「バーティカル・リミット」(Vertical Limit)、公開:家族でロッククライミング中の事故とK2登山クレパスに落ちて高山病による死を待つしかない妹をヒマラヤの垂直限界(バーティカル・リミット)で救助する作品。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:北海道山岳連盟(江崎幸一、江藤寛、高橋留智亜)、法政大学(萩尾雄二、山本俊雄)、東北地区海外登山研究会(八嶋寛、保坂昭憲、児玉隆司、今野一也、小林重一、田中敏雄、山下健夫)
・植村直己冒険賞:第5回受賞者は神田道夫氏。冒険名:「熱気球でヒマラヤ・ナンガパルバット(8,125m)越えに成功」
2001 平成13年 ・富士山レーダーは富士吉田市に移設され、富士山レーダードーム館として公開。(道の駅富士吉田に隣接:無料のバナジュウム天然水をが汲むことができます)⇒気象レーダー運用の電気技術史に残すべき顕著な事例として2000年3月米国電気電子学会からIEEEマイルストーンに認定された。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:石川直樹(7大陸最高峰完登:直木賞受賞作家石川淳の孫)
・植村直己冒険賞:第6回受賞者は中山嘉太郎氏。冒険名:「中央アジア・シルクロードを駆け抜ける」
2002 平成14年 ・1月6日山岳遭難エアーレスキューの第1人者トーホーエアーレスキュー社長篠原秋彦氏、北アルプス・鹿島槍ケ岳で、雪で身動きできなくなった福岡県の男女4人のパーティーを、救助活動中ヘリコプターからつリ下げた救助用ネットから落下し死亡。出動1700回、救った遭難者2000人超。航空法では許されていない物資を運ぶネットを改良してそれに数人を一度に乗せて吊るして運ぶ方法を考案。国も緊急避難として許容していた。
・山野井泰史:ヒマラヤのギャチュンカン(7952m)北壁の単独登頂に成功するものの、帰路に雪崩に遭い壮絶な生還劇の末に脱出するが、両手及び右足の指を計10本切り落とす。
・元FIドライバー片山右京:エベレストに挑戦するも南峰(8790m)で撤退。
・皇太子徳仁親王殿下、雅子妃殿下:大菩薩嶺登頂
・甲斐駒ヶ岳黒戸尾根七合目(標高2400m)の「七丈小屋」を北杜市:旧白州町が整備。水洗トイレ化。
・平田和文:日本百名山連続登頂最速記録。7月7日乗鞍岳を皮切りに9月10日郷里の屋久島宮之浦岳を66日で完登。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:渡邉玉枝(63歳山梨県)、村口徳行、山田淳(23歳、東京大学生:7大陸最高峰完登)、桐生山岳会(宮崎勉、石川康之)、長見重能、田村真司、佐藤真二、野口光二、
・植村直己冒険賞:第7回受賞者は山野井泰史・妙子氏。冒険名:「ギャチュンカン峰(7952m)の登頂に成功」
2003 平成15年 ・冒険スキーヤー・三浦雄一郎(70才7ヶ月)と次男でモーグルの元五輪代表、豪太(33才)、山岳カメラマンの村口徳行がエベレスト(8848m)に南東稜から登頂。
・社団法人日本山岳ガイド協会統合設立(「社団法人・日本アルパインガイド協会」「日本山岳ガイド連盟」が合併)環境大臣認可。
・「群馬県警察山岳捜索救助隊」が発足:(比較的低山での道迷いや、日没による行動不能といった遭難の急増に対応するため隊員で構成)⇒谷川岳警備隊は1958年(昭和33年)に発足
・国土地理院「剱岳」に表記を統一。(剣岳、劔岳等)
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:大河内宏幸、荒木富美雄、安村淳、谷川太郎、長久保浩司、吉田裕一、山村武史、廣瀬健太、高畠聡、田中基喜、泉田清幸、三浦雄一郎、三浦豪太、村口徳行
・南アルプス芦安山岳館開館:南アルプス市芦安の夜叉神峠に向かう途中にあります。
・植村直己冒険賞:第8回受賞者は安東浩正氏。冒険名: 「日本人初の厳冬期シベリア単独自転車横断」
2004 平成16年 ・ロシア隊ジャヌー北壁を直登。
・富士山の山頂8合目以上の登山道、トイレ、測候所などを除く385万m2の土地の所有権は、富士山本宮浅間大社にあるとした1974年の最高裁の判決に基づき、30年ぶりに財務省東海財務局から無償で同神社に譲渡。
8月24日劔岳に三等三角点を設置:GPS測量により三等三角点「剱岳」の標高2997.07mと、剱岳の最高標高2999m(2998.6mを四捨五入)が求められた。最高点は祠の右後の角の岩である。
 剱岳三等三角点の記調製される:「点名:剱岳、選点:明治40年7月13日、選点者:柴崎芳太郎、設置:平成16年8月24日、設置者:伊藤純一、観測:平成16年8月25日、観測者:中山雅之 」。
渡邉玉枝:世界第4位の高峰ローツェ(8516m)に西面ルートを経ての登頂。65歳でのローツェ登頂は世界最高齢記録。8000m峰5座目。⇒第9回植村直己冒険賞受賞。冒険名:「女性世界最高齢で8000m峰5座目となるローツェに登頂」
・羊蹄山ツアー遭難事故札幌地方裁判所(平成14年(わ)第184号)平成16年03月17日判決:1999年9月下旬、北海道の羊蹄山(1898m)の山頂付近で、大坂の旅行社が企画したツアー登山に参加した京都府の女性2人が道に迷って凍死した遭難事故。安全確保を怠ったとして業務上過失致死の罪に問われた同社添乗員の男性(54歳)に対し、「被告はツアーに伴う人の生命の危険を防止する注意義務があった」として禁固2年執行猶予3年(求刑禁固3年)の有罪判決を言い渡した。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:高橋和夫、太田祥子:(広島市の医師63歳:帰路セカンドステップで突然死遭難)、近藤謙司、河野千鶴子、久末眞紀子、斎藤鐘吉、田村俊彦、倉岡裕之、渡辺大剛、村口徳行
・小山田大(鹿児島県蒲生町出身):5月、オーストラリア・グランピアンズにて世界最難ボルダー課題(The Wheel of Life・V16)初登。11月、スイス・クレシアーノにてヨーロッパ最難課題のひとつ(Dreamtime・当時V15(現在V14))を2日間(当時の世界新記録)で再登。
富士山測候所10月1日をもって72年の有人観測に幕。
・野口五郎小屋:例年強風でテントが飛ばされる等の事故が相次いだためテント場借地を営林署へ返却。
・九州登山情報センター(山の図書館)太宰府天満宮側の宝満山登山口に開設
finetrack(ファイントラック)が神戸で創業。「創り手=遊び手」という理念のもとコアユーザーへ本当に欲しいものを届けるベンチャー企業として誕生。
2005 平成17年 ・日本山岳会創立100周年
久末眞紀子(56歳):7大陸最高峰完登(7サミッター)最終登頂山:南極:ヴィンソンマシーフ⇒(1996年:キリマンジャロ、1999年:アコンガグアー、2000年:コジウスコー、2004年:エベレスト、2005年:マッキンリー、エルブルース)
・新釜トンネル開通(全長:1,310m、高さ:4.7m、勾配:10.9%)
・知床が世界遺産に登録
・尾瀬:「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約(ラムサール条約)」に指定される。
・目で見る日本登山史発刊(山と渓谷社)
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:奥田仁、加藤慶信、竹内敬一、児玉毅、岩崎圭一(海抜0mから徒歩で登頂)、井本重喜、島田智恵子
・5月14日ユーロコプター社のテスト・パイロット、ディディエ・デルサーユ氏の操縦するAS350B3ヘリコプターがエベレスト山頂8850mに着陸する(航空機として最も高い場所での離着陸記録)。
・植村直己冒険賞:第10回受賞者は永瀬忠志氏。冒険名:「リヤカーを引き世界各地を徒歩踏破4万3千キロ」
・日本山岳会「新日本山岳誌」刊行。日本山岳会創立100周年記念出版 約3000座、1992頁
2006 平成18年 ・東海大学山岳部登山隊小松由佳:日本人女性として初めてK2登頂に成功。南南東リブ(支稜)という登攀ルートでは女性初の登頂(秋田県出身、第11回植村直己賞受賞)。同隊21歳の青木達哉隊員は世界最年少での登頂。
・三峰ロープウェイ運行休止(翌2007年廃止)
・田中正人(埼玉県寄居町出身):トランスジャパンアルプスレース(Trans japan alps race 日本山岳横断レース)優勝。(TJAR:日本海、富山県馬場島海岸から北、中央、南アルプス(劔岳⇒立山⇒薬師岳⇒黒部五郎岳⇒三俣蓮華岳⇒槍ヶ岳⇒上高地⇒奈良渡ダム⇒木曾駒ヶ岳⇒宝剣岳⇒空木岳⇒菅の台⇒市野瀬⇒仙丈岳⇒三峰岳⇒荒川岳⇒赤石岳⇒聖岳⇒畑薙第一ダム)を越えて太平洋静岡県大浜海岸まで・約425km・・一切の交通機関、宿泊施設を利用せず、自身の足のみで一週間(+予備日1日、計8日)以内に踏破する:2年に1度開催)⇒
・雲切新道開通:従来は仙人谷の左岸を阿曽原まで下ったが、雲切新道は右岸の尾根を登ってから仙人ダムまで下るルート。阿曽原温泉小屋のスタッフが中心となって開削。⇒国立公園の特別保護区に役所(環境省・森林管理所・県等)が承認して、正式に登山道が作られたのは初めてだとのこと。
・白根御池小屋再建
・3月27日:女性登山の先駆者今井喜美子(本名:きみ)さん100歳で死去(埼玉県草加市明治38年生まれ)
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:山下健夫、山田公史郎、近藤謙司、荒山孝郎、小川誠(67:越谷市、元東京都職員)、谷嶋真一、北村誠一、上小牧憲寛
・8月15日石岡繁雄氏死去(88歳):ナイロンザイル切断事故の真相究明に努めた。
・NHKで「氷壁」が玉木宏、山本太郎が主演で放映される。K2を舞台にザイルが原因ではなくカナビラの欠陥が原因としてリメイクされた。
2007 平成19年 山野井泰史、妙子、木本哲:グリーンランド、高さ1300mの未踏の大岩壁オルカ初登。⇒2008年1月7日(月) NHKスペシャル『夫婦で挑んだ白夜の大岩壁』で放映された(DVDで販売されています)。
・7月26日:2000年に発生した大日岳遭難に関する訴訟が和解成立。
・尾瀬国立公園誕生植生や地形が独特な保護を要するとして日光国立公園から分離し、会津駒ケ岳・田代山・帝釈山を新らたに加え、多くの湿原を含む総面積3万7200㌶の29番目の尾瀬国立公園が誕生(8月30日)
・ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンに高尾山、富士山が三ツ星の山として掲載される。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:坪井泉、大蔵喜福、平賀淳、石井伸一(帰路三角雪田下部で突然死)、東條利文、谷口けい、小林祐三、芳田猛則、倉岡裕之、野口健(33歳:ネパール、チベットの両方からの登頂成功者は日本人8人目)、
・柳沢勝輔さん(長野県上田市、元中学教師):71歳2ヶ月と2日でエベレスト登頂。
・大山光一さん(埼玉県東松山市):エベレスト登頂(プライベートパーティー)。世界7大陸最高峰登頂達成⇒(1973年にはマッキンレーにまで登っていた氏が結婚とともに登山を止め、そして50歳になったのを機に再開。サラリーマンを続けながら会社の仲間や家族の理解、協力を得ながらの快挙。平成20年6月さいたま市の大宮ソニックシティー開催された埼玉山岳連盟海外登山委員会主催の講演 「世界七大陸最高峰登頂と登山10年計画」を夫婦で聞きました。登山は中断しながらも日本山岳会の会費は支払い続けていたとのこと。続ける意志を持ち続けることがカッコいいと思いました。感動しました。)
・植村直己冒険賞:第12回受賞者は野口健氏。冒険名:「エベレストに北稜(中国側)から登頂成功」
・小山田大:塩原にて、国内最難ボルダー課題(レベルV15/16)初登。
・皇太子徳仁親王殿下:雲取山登頂
・警視庁高尾警察署山岳救助隊発足。
2008 平成20年 ・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:藤森幹二、増田義人、角田道弘、加藤慶信(10月1日クーラカリンで遭難死)、五十嵐和哉、村口徳行(日本人最多登頂5回)
三浦雄一郎:5月26日、75歳でエベレスト再登頂を果たす。ギネスブックに最高齢登頂者として登録された。⇒しかし、この記録は2009年11月に取消され「最年長登頂者は2008年5月25日に登ったミン・バハドゥール・シェルチャン氏(ネパール人)で、登頂時は76歳と340日」と修正された。
・竹内洋岳:8000m峰全14座のうち11座目となる中国とパキスタン国境のブロードピーク(8051㍍)登頂に成功。
続 素美代2008年1月24日、日本人女性として初の南極点到達。1200kmを57日間で踏破。⇒後日、南極環境保護法に基づく環境省への事前届け出をしていなかったことが判明。
田中正人:トランスジャパンアルプスレース(Trans japan alps race日本山岳横断レース)5日間10時間32分で優勝 (8月10日の朝7時頃劔岳の山頂下でお会いした。少し会話を交わした後カニのヨコバイに駆け下りていきました。「6日ぐらいでゴールしたい」といっていましたが大幅な記録更新でした。凄い!!)
・12月3日、エーデルワイスクラブの創始者:坂倉登喜子さん死去(98歳、1910年東京生れ)
・皇太子徳仁親王殿下:富士山登頂
・12月27日:岳沢ヒュッテ廃業を発表(2005年12月雪崩で全壊したのち、仮営業をしていた)
・国民体育大会(チャレンジ!おおいた国体)の山岳競技にボルダリング種目を採用(およそ5m以内の高さの短い課題をロープなしでトライする。)
・石塚真一の山岳マンガ「岳」マンガ大賞受賞。
・第1回涸沢フェスティバル開催:山と渓谷社の主催による北アルプスのお祭り(通称:涸フェス)として定着する。
2009 平成21年 ・小山田大:1月、鳳来にて国内最難ボルダー課題(エピタフV15)初登。「
・日本の2チーム5名がピオレドール賞(黄金のピッケル賞)受賞:①谷口けい(36:和歌山県出身)、平出和也(29:長野県富士見町出身)⇒インド北部カメット峰(7756m)南東壁の初登攀に成功並びに②佐藤祐介(32:甲府市出身)、天野和明(32:山梨県甲州市出身)、一村文隆(31:高松市出身)⇒インド北部カランカ峰(6931m)北壁を制覇。
「ピオレドール(黄金のピッケル)賞」は1991年創設された世界の優れた登山家に欧州の山岳誌などが新ルート登山の中から、高度な技術や開拓精神などを基準贈る「登山界のアカデミー賞」とも呼ばれる賞でを日本人が受賞するのは初めて。また谷口けいの女性の受賞も初。
・竹内洋岳(ICI石井スポーツ)ローツェ(8516m)無酸素登頂(5月20日):8000m峰12座目
・白馬岳氷河公園付近(小雪渓上部)で山火事。0.4ヘクタール焼ける。
・4月、国立登山研修所が独立行政法人日本スポーツ振興センターに移管。
・映画「劔岳点の記」6月20日全国公開。監督・撮影:木村大作 山岳監督:多賀谷治(山岳ガイド・秋田県出身)出演者(仲間たち):浅野忠信(測量手:柴崎芳太郎)、香川照之 (案内人頭:宇治長次郎)、松田龍平(測夫:生田信)、仲村トオル(日本山岳会:小島烏水)、宮崎あおい(柴崎葉津よ)、モロ師岡(測夫・木山竹吉)、螢雪次朗(宮本金作・案内人)、仁科貴(岩本鶴次郎・案内人)、蟹江一平(山口久右衛門・案内人)、小市慢太郎(日本山岳会:岡野金治郎)そして多くの仲間たち。⇒素晴らしいの一言でした。剣岳に登った事がある人もまだ登っていないひとも、また山に興味が無い人も是非見ることをお勧めします。CG、空撮を一切使わない立山と剱の荘厳で美しい自然があります。日本の誇れる映画の一本になったと思います。
・6月30日、千枚小屋火事により消失。
・7月16日、大雪山系トムラウシ山と美瑛岳で集団遭難。低体温症により10名死亡。トムラウシ山でツアーの8名(男性2名と女性6名)、とソロの男性1名。美瑛岳でツアーの女性1名。
・7月29日よりNHK「趣味悠々」で「登山入門」スタート。講師田部井淳子。受講生ルー大柴。高尾山に始まり富士山登山を目指す10回シリーズ。
・NHK「北アルプス大縦走2009」:名古屋放送局の内田勝康(ウッチー)アナが登山家の田部井順子さんと7月23日室堂を出発し立山、薬師岳、高天原、槍ヶ岳、大キレットを越え、8月14日の奥穂高からジャンダルムまで大縦走。(9月4日11日放映)
・白馬岳小雪渓上部の避難小屋再建:旧避難小屋は2006年から7年の雪崩で全壊していた。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:田中康典、宮守健太、篠崎純一、本多哲夫、高田邦秀、新井誠、近藤謙司、倉岡裕之、芳田猛則、田村真司、齋藤鐘吉、滝口清美
・登山雑誌「PEAKS(ピークス)」創刊(エイ出版):若い世代や女性の登山者に向けた新しい登山雑誌。主要な山ごとに特集を組み、見た目から入りながらも、機能的な裏付けもきちんと抑え、専門誌として「カッコいいけど、それだけじゃない」新しい登山ウエア・ギアを核にしたコーディネート・スタイルを提案。初心者だけでなくベテランにも参考になる。
・松本優人(8歳)と拓人(6歳)の兄弟が日本百名山最年少登頂記録更新。埼玉県ふじみ野市の兄弟は、前日雪の間ノ岳の登頂したあと、10月11日南アルプス北岳にまず兄が登頂して記録を更新した後、弟が続いて登頂し更に記録を更新。
2010 平成22年 ・4月4日藤内(とうない)小屋オープン(定員30名、土日祝日前営業、2500円):2008年9月の集中豪雨で倒壊した、鈴鹿山脈御在所岳(1212m)の大谷川沿いの標高665m地点に多数のポランティア努力により再開した。宿泊棟はモンベルハウスです。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:倉岡裕之、安形俊久、角谷道弘、小笠原寛(帰路8300m付近で突然死で遭難)
・5月22日米国人少年ジョージ・ロメロ君13歳が最年少でエベレストに登頂。
・4月日本山岳会埼玉支部が全国30番目の支部として誕生。そのパンフレットにはシャクナゲの花の写真の下に両神山のイラストがあり、その間に「山に行(むか)う 山に憩(いこ)う 山友(とも)と語あう その素晴らしき 山展望(パノラマ)を 君と共に堪能(あじあ)おう」とある。
・7月23日 岳沢小屋が槍ヶ岳グループの穂苅康治氏により再開される。
・10月4日からBS日テレで女優小島聖(ひじり)の「登る女」の放送開始。登山の楽しみとともにプラスαで料理好きの聖さんの拘りの山メシなども紹介。名前の「聖」は父親が好きな南アルプスの聖岳から取ったものだという。山ヤを自認する人達は注目し、応援したい女優です。(2010年10月は日生劇場で松本幸四郎さん主演の「カエサル」でクレオパトラを演じていました。)
・山岳マンガ坂本眞一の「孤高の人」第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞:新田次郎による小説作品。及びそれを原案とした漫画作品(週刊ヤングジャンプ連載)
・北岳バットレス、マッチ箱のコルの先40m程の通称「枯れ木のテラス」辺りの岩稜が崩落し通過が困難となる。
・「ヤマケイJOY」冬号で閉刊。1975年(昭和50年)創刊以来35年の歴史を閉じる。
カジタック高齢と後継者不在により廃業⇒モンベルが事業承継し「モンベル・カジタックス」ブランドでアイゼンを販売。
2011 平成23年 ・3月10日:「ワンダーフォーゲル」創刊:ヤマケイJOYの後継誌。
・5月7日:「岳-ガク-」公開。石塚真一原作の山岳漫画の映画化。小栗旬、長澤まさみ主演で公開。雪の北アルプスの映像が迫力でした。「また山においでよ」と叫ぶ三歩と山岳救助隊員として成長していく久美ちゃんが素晴らしかった。原作者の石塚さんとフリークタイマーの平山ユージさんも山小屋で一緒に飲むシーンで出ていました。
・エベレスト(チョモランマ)日本人登頂者:石川直樹、田村真司、倉岡裕之、平岡竜石、田路繁男、川崎久美子、近藤謙司、平出和也)
・5月13日:尾崎隆(58歳)エベレスト登頂途中高山病になり下山途中に死亡。(尾崎隆氏は1980年世界初のエベレスト北壁からの登攀に成功。植村直己冒険賞の第1回受賞者)
・5月25日:NHKグレートサミッツ取材班エベレスト登頂成功(ハイビジョン撮影を行う。廣瀬学、村口徳行(日本人最高6回目)、高橋克昌、田村幸英、山村武史)
・6月26日: 北アルプス涸沢で雪崩が発生し、涸沢ヒュッテの売店が被害を受ける。
・7月2日:谷川岳の日に制定(1920年7月2日、日本山岳会望月敏男と森喬が登頂したころに由来する。)
・8月1日:富士山ガイド.COM(Mt.Fuji Climbing Information)開設:富士吉田市役所富士山課が運営する富士山登山に関する総合サイト。8合目に設置した3台のカメラでご来光、登山道のライブ映像から山小屋、天気、気温等の情報まで英語、中国語、ハングルで見ることもできる。富士山に登るならぜひ覗いておきたいサイトです。
・9月22日:特殊切手「日本の山岳シリーズ第1集」(80円切手)発行。富士山、磐梯山、白山、比叡山、石鎚山、岩手山、谷川岳、赤石岳、蒜山(ひるぜん)、阿蘇山(高岳)の10山
・10月9日:北アルプス涸沢カールの野営場が1200張、2000人を記録する。
2012  平成24年  ・4月3日:我が国初の「氷河」を認定。立山カルデラ砂防博物館が前年調査を行った立山・御前沢・剱岳三ノ窓雪渓、小窓雪渓の3つの万年雪が現存する氷河であるとした論文を1月22日に「氷河日本雪氷学会」に投稿し、審査 の結果、4月3日に受理され、氷河と認定される。
 ・エベレスト日本人登頂者渡邉 玉枝(女性世界最高齢登頂 73歳)、村口 徳行、【日本人最高7回目)、大山 光一(日本山岳会2回目プライベートパーティー) 
・竹内洋岳ダウラギリ(8167m)登頂。8000m峰14座日本人初登頂
・南アルプス千枚小屋が再建され営業を再開
・7月15日:那智の大滝を3名が途中まで登り逮捕される。世界遺産であり我が国古代からの信仰の御神体とされている滝にどういう気持ちで登ったか・?因みに、この登攀のリーダーは2009年にインドヒマラヤ北東壁初登によりピオレ・ドール(金のピッケル)」賞を受賞したこともあるクライマーである。
・7月20日:熊本地裁は2006年10月ツアーに参加した福岡、熊本両県の50~60代の女性5人が参加し、うち4人が死亡した白馬遭難事故に関して「ガイドは10月初旬の北アルプスが天候次第で冬山になる危険を知っていたのに、天候に関する情報収集義務を怠った」として責任を認め6140万円の賠償責任を命じる判決。ガイドの個人的な民事責任を認めた最初の判決。

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